〈PCSの命名〉
その後の日本ワットソンについて、記録しておかなければならないことがある。
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〈澁澤元治〉
IBM社の日本法人「日本ワットソン統計会計機械株式会社」は資本金50万円で設立され、横浜市に最初の本社を構えた。株式5000株の内訳けは次のようだった。
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〈モーリス・シュバリエ〉
このことに注目したIBM社の海外事業部は1935年(昭和十)、ベルギー人のモーリス・シュバリェを団長とする市場調査団を日本に派遣した。「モーリス」は通称で、正しくは「ガイ・ディ・デ・ラ・シュバリェ(Guy D.de la Chevalerie)」といった。
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〈帝国生命〉
2人の成果はアメリカでなく、日本で実績と結びついた。
まず日本生命保険が1933年、IBM社がパンチカードを80桁に拡張したことに注目して、カードパンチ装置、ベリファイヤー、ソーター、タービュレーターなど合計20台を黒澤商店に発注した。日本生命保険はそれまで、国内におけるパワーズ式統計会計機械装置のビッグユーザーだった。リプレースの大型商談に、黒澤商店はにわかに活気づいた。
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〈レイクとキャロル〉
さらに1924年、社名を「インターナショナル・ビジネス・マシンズ(IBM)」に変更した、ということはすでに書いた。このとき、ホレリス式統計会計機械装置の技術研修を受けていた水品浩は、半年の間、毎日この言葉を目にしていた。IBM社はワトソンのもとで新しい会社に生まれ変わりつつあった。
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〈CTR社〉
ここで計算機をめぐるアメリカでの動きを書いておかなければならない。
IBM社の前身は、アメリカ連邦政府国勢調査局に勤めていた統計学者のハーマン・ホレリスが1896年に設立したタビュレーティング・マシン社である。ところが販売不振から資金難に陥り、チャールズ・フリントの援助を仰ぎ、1911年にコンピューティング・タビュレーティング・レコーディング(CTR)社に吸収された。
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こうした間にアメリカでは、電子技術の分野で注目すべき研究開発が行われていた。
一つは真空管だった。
グラハム・ベルが1876年に電話を発明してから6年後のことだったが、”発明王”エジソンは白熱灯を使っているうちに、なぜ周りのガラスがすすけてくるのか、ということを考えていた。それを防ぐ方法を考案しようとしたのである。
――フィラメントが加熱され、そこから飛び出す炭素の微粒子が付着するのに違いない。
と彼は推測した。
炭素の微粒子とは、すなわち煤(すす)のことである。
そこで彼は、
「フィラメントの周りに網を置いて、微粒子を付着させればいい」
と考えた。
ところがフィラメントから飛び出しているのは炭素の微粒子ではなく、電子だった。
それから24年が経った1906年、エジソンのひらめきをヒントに研究を続けていたアメリカの電気技師であるド・フォレストが、これまでにない全く新しい原理を発見した。その原理とは次のようなものだった。
――フィラメントとプレートの間に、筒状にした金属の網を置くと、金属の網にかかる電圧の変化が、フィラメントとプレートの間の電流を比例的に、より大きく変化する。
というのである。
これによって、微細な電気信号を増幅することができるようになった。
「三極真空管」の原理が確立された瞬間だった。
ただ、製品化されるにはしばらく時間が必要だった。
まず遠隔通信用の電話交換機に適用され、1915年にサンフランシスコ市で開催された万国博覧会で、アメリカ横断電話の公開実験が行われた。『電子立国・日本の自叙伝』上(相田洋、1991、日本放送協会出版)はこう記す。
会場に設置された電話機とニューヨークにいるグラ
ハム・ベルとの間で最初の通話が行われた。
ベルが電話機に向かって
「ワトソン君、来てくれたまえ」
と叫んだ。
ニューヨークから4500キロ離れた会場のワトソン
が叫び返した。
「今度そちらに駆けつけるのに5日かかりますよ」
こうして電話網が大陸を横断した。
こぼれ話だが、ベルが助手ワトソンに「ちょっと来てくれ」と呼びかけたのは、あらかじめ用意された台詞ではなかった。このときベルは器材用の希硫酸をズボンに落としてしまったため、思わずいつもの調子で助手に手助けを頼んだのだ。
グラハム・ベルの助手〔ワトソン〕も、トーマス・ワトソンといった。IBM社の社長と同姓同名で、しかも同じ時期に活躍している。誤解を避けるためにあえて記録しておくと、彼のミドルネームは「オーガスタス」で、モールス通信社の電気技師だった。
この真空管が30年のちにコンピュータを誕生させることになる。
もう一つはテレビジョンの開発だった。
遠隔地で起っていることをリアルタイムな映像で見たい、というのは、20世紀初頭から世界共通の願望だった。『海底2万マイル』、『月世界旅行』、『80日間世界1周』などの空想小説で知られるジュール・ベルヌは、妙齢な女性が手鏡に映る男性の顔を見ながら話をしているカフェの風景画を残している。いまでいえば、携帯型のテレビ電話であろう。
この分野で日本は、アメリカ、ヨーロッパとほぼ互角に研究を進めている。
まず1924年(大正十三)に芝浦製作所がブラウン管を発明した。このブラウン管を使って、2年後に浜松高等工業学校教授であった高柳健次郎が国内最初のテレビ放送実験に成功した。アメリカやヨーロッパでは、孔の開いた円盤を回転させる機械式が本命視されていたが、高柳は電子式の受像回路を発明したのだった。このときブラウン管に映し出されたのはイロハの〔イ〕の字だった。
高柳は続いて28年に、神田電機学校(現東京電機大学)でブラウン管式テレビ放送の公開実験を行っている。日本電気がテレビジョンの研究開発に着手したのはこの年だった。1935年までにドイツ、フランスで実験放送が始まり、ドイツは1936年のベルリン・オリンピックを中継した。
日本でも1940年にオリンピックが開催される予定だったため、研究開発は急ピッチで進められた。37年には早くも中継用自動車隊が編成され、さまざまな実験を開始している。また39年3月には日本放送協会の技術研究所がテレビ放送の実験を始め、8月に東京・日本橋の三越百貨店で開かれた「興亜逓信展覧会」、翌年には大阪・梅田の阪急百貨店で一般市民に初めて公開された。翌40年4月、日本初のテレビドラマ『夕餉(ゆうげ)前』が制作されている。
このドラマの本放送は、東京の世田谷区で行われた。日本放送協会の技術研究所があったというだけでなく、当時、世田谷区には高級住宅街が形成され、テレビジョン・システムを購入し得る高所得階層の住民が少なくなかった。
余談だが、この年の10月に放送されたドラマに子役時代の中村メイコが出演しているという。第二次大戦後、テレビ放送が再開されたとき、顔を白と黒に塗ってテストパターンに起用された黒柳徹子が「初のテレビ女優」であったとすれば、中村メイ子はまさに「テレビの申し子」だったことになる。
思わぬ事態の出来に岩垂は
「ほかに人物が見つからなければ、自分がやるしかあるまい」
と考えた。ところが彼は、逓信省の入札資格を持っていなかった。それではWE社の事業を日本で展開することができない。そこで岩垂は、大阪電燈に勤めていたときに知り合った「日電商会」の前田武四郎に事業への参画を打診した。日電商会は逓信省への入札資格を持っていた。
1898年の6月、雨が降り続く某日、岩垂は前田に共同事業を申し入れた。
前田武四郎は慶応三年(1867)、越後国(新潟県)の生まれというから、岩垂の10歳年下である。83年に上京して電信修技校に入り、逓信省電気試験所に勤め、三井物産、日本電燈、三吉電機工場を経て96年に「日電商会」を設立した。
ドイツのヒーリング商会と提携し、ヨーロッパ製の電気製品を主に扱い、事業は順調に拡大していた。岩垂の申し出を受ければヒーリング商会との関係を打ち切らなければならない。前田は大いに悩んだが、技術者としてだけでなく、将来を見通す岩垂の能力に感服していたので、WE社との共同事業に賛同し、ここに資本金5万円で新会社を設立する合意が成立した。
岩垂と前田は、WE社の製品を製造する工場を東京に持とうと考えた。前田が目をつけたのは、三吉電機工場だった。工部省の電信局製機所に技官として勤めていた三吉正一が設立した会社で、当時としては国内最大規模の電機工場を、都内三田の旧薩摩屋敷跡に保有していた。ところが三吉は、経営難に直面していたのである。前田から話を聞いた三吉は、三吉電機の事業を継承することを条件に、前田からの申し入れを受けると返答した。
1899年(明治三十二)9月1日、新聞や雑誌に次のような告知広告が掲載された。
今般三吉電機工場を譲り受け大に販売部を拡張し広
く内外電気製品の貴需に応ず。
広告主は「東京都芝区3田4国町2番地 日本電気合資会社」、すなわちこんにちの日本電気の前身である。
田中久重が設立した田中製作所は、逓信省技官川口市太郎が取り組んでいたパンチカード式計算機の試作を手伝う1方、東京電燈(のち東京電力)などとの取引きを広げていた。森村グループの日本陶器に陶製碍子を大量に発注するなど、電気設備の需要とともに事業は順調に拡大した。
田中製作所は1904年(明治三十七)に社名を「芝浦製作所」に変更している。また三吉電機工場を岩垂邦彦と前田武四郎に売却した三吉正1は、1890年に設立していた白熱電球メーカー「白熱社」に移って活躍し、1899年に社名を「東京電気」に変更した。芝浦製作所と東京電気が1939年(昭和十四)に合併して「東京芝浦電気」となる。
一方、吉崎牙太郎の明工社は、吉崎の姓が「沖」に変わったのに合わせて社名を「沖電気工業」に変更し、岩垂・前田の日本電気と並んで電話機、交換機、無線装置、さらに新たに開始されたラジオ放送用機器などを中心に順調に事業を広げていった。
吉崎が「白熱社」を設立するに際して協力した藤岡市助は、電燈用配電方式をめぐって岩垂と論争したが、一方では岩垂を通じてエジソンのゼネラル・エレクトリック社と提携もしている。また逓信省で電話事業の発展に努めた大井才太郎は工部大学校で岩垂と同級という関係にあった。さらに前田武四郎は吉崎電機工場の技師長を務めたこともあった。日本の代表的な弱電メーカーがほぼ同じ時期に、人間関係が錯綜する中で形成されていったのは興味深い。
意外だが、日本電気は1902年(明治三十五)に扇風機を初めて輸入し「電気うちわ」の名称で売り出した。このほか、電気パン焼(トースター)機や電気オーブン、電気レンジ、電気湯沸し器、ルームクーラー、電気アイロンなど、第二次大戦後、しばらくしてようやく普及する電化製品を早くに扱っている。
この時期の日本電気は、アメリカのWE社と岩垂・前田両名による合弁会社で、なおかつアメリカ製の家庭用電気製品や通信機器の輸入販売が全売上高の8割以上を占めていた。現在の日本電気、つまり日本を代表する電機・電子メーカーとしての「NEC」に転換するのはのちのことである。そこにいたるまでに同社は昭和大恐慌(1927)、政府による国産品愛用運動(1930)、住友合資会社の出資受け入れと経営委託(1932)、「住友通信工業」への社名変更(1943)、第二次大戦後の財閥解体などを経なければならなかった。
ちなみに、第二次大戦後、国産コンピュータ・メーカーとして躍進する富士通は、昭和初年にはまだ影も形もない。富士電機が通信機器部門を分離して専門子会社「富士通信機製造株式会社」を設立するのは1936年(昭和十一)である。また、富士通と並ぶ国産コンピュータ・メーカーとなる日立製作所は、日立鉱山の系列会社という色彩が強く、戦前においては鉱山や造船、大型モーター、発電用タービンといった重電分野にとどまっていた。
三菱電機は1921年(大正十)に三菱造船神戸造船所の電機製作部門が分離独立して設立され、日立製作所と同様に重電分野で事業を展開していた。軍事向け大型艦船の建造から出発しただけあって、大型タービンや発動機がメインだった。その一部で海事用無線機など電気通信機器を製造してはいたが、いわば片手間仕事に等しく、電子機器への関心は薄かった。家電製品の市場はほとんど形成されていなかったから、当時の電機メーカーは産業用モーター、艦船用タービンなど重電か、しからずんば白熱灯など弱電という二者択一的な状況にあった。
こうしたわけで日清・日露、第一次世界大戦などを経て国内の重厚長大産業が興隆していたとき、電子機器に目を向けたのは重電メーカーではなかった。彼らは大型案件を受注することで、白熱灯何万個にも相当する利益を挙げることができた。つまり電話機や無線機、あるいは電送機械装置といった新しい機械装置は、こんにち風にいえば”ニッチ”な製品にほかならなかった。となればそのマーケットに期待を抱いたのは弱電メーカーに限られるであろう。
この章は、本書の主題である社会・経済の情報化ないし、ITサービス(ソフト/サービス)産業と直接の関係がない。第二次大戦後、国策に沿ってコンピュータを国産化する電機・電子機器メーカーのことである。
主題からやや遠いことに一章を費やすのはなぜであるかといえば、”騎虎の勢い”とでもいうものであって、筆者が読者にいえるのは
「まぁ知っておいて損はあるまい」
という程度のことでしかない。ただ、あとあとのことにかかわりがある。
そこでやや端折りながら、主要な人物と出来事を記す。
1877年(明治十)にアメリカから、2台の電話機が日本政府にもたらされていたことはすでに書いた。その翌年の4月、二代目田中久重という人が「伝話機」を試作している。からくり人形や久留米絣の自動織機を発明した「からくり儀右衛門(初代田中久重)」の養子で、二代目を襲名した人物である。のちに東京・麻布に田中製作所を興し、これが芝浦製作所となり、こんにちの東芝の前身となった。
明治政府の工部省(1885年に逓信省)は1877年の12月、同省所管の電信局製機所にアメリカから輸入された電話機を模造するよう命じた。この仕事に従事したのは吉崎牙太郎、三吉正一という2人の技術者で、2人は翌年6月に模倣機を完成させている。
うち、吉崎は1881年(明治十四)に独立して「明工社」を設立した。こんにちの沖電気工業である。また三吉は1885年(明治十八)に白熱灯用発電機の開発に成功したのち、工部省が廃止されたのを機に独立して、東京・三田に三吉電機工場を設立した。
この年――。
というのは1895年のことだが、政府は電話網を全国に展開すべく「第一次伝話拡張計画」を策定した。日清戦争を機に鉄道、金融、紡績といった産業が一気に拡大し、このために電話の需要が勃興した。日本における電話の始まりは1890年、渋澤栄一、大倉喜八郎、森村市太郎らによって始まった東京、横浜での交換事業であって、当初のそれは交換局2、通話所16、加入者344にすぎず、加入料50円という高価なものだった。6年を経て加入者は2858と7倍以上に増加したが、なお4098の積滞があった。
このため逓信省の大井才太郎は
――商工業の発展を期するには思い切った公共投資が必須である。
として、第8回議会に議案を提出したわけだった。
計画では、向こう7年間に総額1280万円の国家予算を投入し、加入者を3万に増やすというものだった。この報せを受けて、アメリカの電話機市場を独占していたウエスタン・エレクトリック(WE)社は日本で電話機を製造・販売することを計画した。それ実現すべく、国内で唯1の電話機メーカーだった明工社に合弁会社の設立を打診した。明工社はすでにWE社と提携関係にあったので、交渉は容易にまとまると予想された。
吉崎とWE社の間を仲介していたのは、岩垂(いわたれ)邦彦という人物である。
岩垂は安政四年(1857)に九州の小倉に生まれた。1882年(明治十五)、工部大学校(のち東京帝大工学部)の電気工学を卒業して工部省に入り、1886年にアメリカに渡ってエジソン・マシン・ワークス(EMW)社に見習い技師として採用された。EMW社が、のちに企業合併・吸収を繰り返し、ゼネラル・エレクトリック(GE)社となった。岩垂はトーマス・エジソンに師事した数少ない日本人の一人である。
88年に帰国した岩垂は最初、「大阪電燈(のち関西電力)」という電力会社に技師長として勤め、同社第1号となる西道頓堀発電所を建設している。94年に独立して「岩垂電機商店」を設立した。EMW社の製品を輸入して販売するかたわら、日本におけるWE社の代理店にもなっていた。
順調に進むと思われた吉崎とWE社の交渉は、吉崎が
「当社の独自性が侵される」
と懸念し、腰砕けになった。
それというのは、WE社の製品はこのとき3菱商事が総代理店となって輸入されていた。
吉崎が懸念を示したのは、合弁会社の設立に三菱商事を参加させると、主導権を三菱に奪われてしまうということだった。その対応をめぐって、交渉が決裂した。吉崎は三菱商事を排除しようとしたのである。1898年(明治三十一)5月、交渉は白紙に戻ってしまった。
井上が描いた景気回復のシナリオは、次のようなものだった。
① まず、緊縮財政/軍備費削減によって重工業、繊維産業の不況は一時的に深刻さを増す。
② それによって、倒産や企業合併が進み、失業者も一時的に増加する。
③ しかし企業が淘汰され、資本の集約が促される。
④ 並行して賃金の抑制と圧縮が進み、生産原価が低減する。
⑤ 結果として日本製品の国際競争力が増す。
だが彼は、重大なことを見落としていた。
それは、世界規模のマネーサプライないしマネーフローである。
金本位制を導入するのが日本だけであれば、国際的な円の信用力は向上するに違いない。また国内金融機関への信頼感も高まり、海外からの投資(もしくは円買いに伴う外貨準備)と預貯金が増し、その資金が産業界に低利で還流すれば投資に弾みがつく。だが彼は、アメリカの経済状況の分析を怠った――というより、楽観的であり過ぎた。その1か月前、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落していたが、彼はそれほど重大に受け取らなかった。むしろ次の年の1月にロンドンで開かれる海軍軍縮会議に大きな期待を抱いていた。
金解禁が実施されると、為替レートは百円=49ドル85セントの固定制となり、円は14%以上切り上げられることになった。それまで金解禁が近いと見てドル売り・円買いの動きを強めていた国内外の投機筋は、一転して円売り・ドル買いの利食いに走った。円を持っていれば、持っているというだけで14%もの損を被るのである。
このため1930年1月から6月までの半年で、2億3000万円の金が海外に流失した。1930年の1年間だけで3億円――日銀準備高の3割――相当の正貨が海外に流出し、なおその勢いを失っていなかった。翌1931年9月21日、金本位制の”本家”であるイギリスが日本とは反対に
――金の輸出を禁止する。
と発表した。すると今度はポンドを売ってドルを買う動きが世界的に強まった。国内の財閥はドル売りによる差益に目が眩んだ。手持ちの円をドルに換え、それを海外の機関投資家に売ったのだ。9月21日から11月4日までのおよそ1か月半に、横浜正金銀行は3億4200万円相当の円をドルに交換した。そのときの上位4社は次のようである。
・ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行 3700万ドル
・三井銀行 2135万ドル
・三井物産 1423万ドル
・住友銀行 1235万ドル
だけでなく、日本企業の海外拠点へのドル送金も行われた。
・10月 1億3500万ドル
・11月 1億4700万ドル
・12月 2300万ドル
結果として、ポンド、ドルに対して円が切り上げられた。1931年12月の時点で1ドルは28円12銭、つまり2年間で約2倍に跳ね上がった。海外の品物が半値で輸入できるということは、日本からの輸出品は倍に値上がりすることを意味している。輸出に依存していた産業は、たちまち経営難に陥った。ここにアメリカ経済の混乱が追い討ちをかけた。
輸出は極端に低迷し、日本の主要産業は操業率の引き下げに追い込まれた。セメント・鉄鋼は50%台、肥料・晒粉は40%台、紡績・製紙は30%台にまで落ち込んだ。生糸の単価指数は、85.3から59.7に、米価指数は28.92から18.36に暴落した。1929年に139億4100万円だったGNPは、1930年に112億4500万円に、31年には16億7800万円に減少し、株価指数は104.5から71.5、31年は53.0にまで落ちた。
企業の倒産とリストラだけは井上が予想した以上の効果をあげた。民営工場労働人員指数は29年91.1、30年82.2、31年74.4と悪化した。実収賃金指数は29年103.9だったが、30年には98.7、31年90.7に低下した。
東京駅で浜口雄幸首相が狙撃されたのは、金解禁からわずか10か月あまり後の1930年11月14日だった。犯人は、右翼団体愛国者の構成員佐郷屋留雄であって、その背後には「一人一殺」を合言葉にした政治テロ組織・血盟団がうごめいていた。
1930年4月に鐘淵紡績(現カネボウ)は全従業員の給与を一律で4割カットすると発表し、ここに大争議が勃発した。9月には東洋モスリン(現東洋紡)が東京・亀戸工場の人員を大量に削減したことから大規模なストライキが発生、11月には富士紡績川崎工場の従業員が賃下げに反対してストライキを敢行した。
不況に強い職業であるはずの教員も、687町村で8782人の給与が未払いとなり、都市部では仕事を失った人が全就労人口の5.3%に相当する約38万人、農漁村地域では欠食児童が20万人に達する深刻な事態となっていた。
われわれ昭和二十年代生まれの者は、はガツガツと物を食べる人を見ると、
――欠食児童みたいだ。
などと言うことがある。
〔飢える〕ということがない現在、この言葉はあくまでも冗談として使われる。だが当時の状況は悲惨だった。水を飲んで腹を満たし、木の根を煮て食するようなことも珍しくなかった。米の一粒が手に入らなかったのだ。
本来であれば就労しているべき若年層ですら、郷里に帰っても仕事がない、というありさまだった。十年越しの不況から抜け出すため、企業経営者は経費を削減するために人員整理を進めるほかなかった。展望を失った「エログロ・ナンセンス」が流行し、まさに小津安二郎の映画『大学は出たけれど』の時代だった。
1931年12月に組閣した犬養毅は、金融恐慌を「モラトリアム」という裏技で切り抜けた高橋是清を蔵相に起用し、金輸出再禁止を即刻実施して事態の収拾を図った。経済はやや回復に向かうものの、日銀の正貨準備高は3億円にまで減少していた。過去に実施した経済政策では、社会・経済全体を覆う不透明感を打破するには力不足だった。
浜口内閣で財政を担当したのは井上準之助である。
東大を卒業し日銀に入り、イギリスに留学後、1913年に外国為替取引を専門とする横浜正金銀行の頭取に就任し、19年日銀総裁を経て山本権兵衛内閣、田中義一内閣で蔵相を務めた。いかにも財政エリートの経歴を持つ彼は、長引く不況の原因が成金時代に膨れ上がった不良債権とインフレにあることを見抜いていた。加えて円の国際的な価値が下がった。
1929年7月2日、浜口内閣の蔵相に就くと、井上はすかさず緊縮財政を打ち出した。歳入ではシーリングを強化し、国債の新規発行を3924万円減らし、一般会計当初予算17億7356万円の5.67%に相当する9165万円を削減した。彼には、軍備の縮小によって、国債発行額の圧縮と一般会計予算の削減が達成できるであろう、という予測があった。
事実、ロンドン海軍軍縮会議で若槻礼次郎全権は、補助艦を含む日本の海軍の装備を対英米の約70%とすることで合意、条約に調印した。その前に開かれたワシントン軍縮会議でイギリスとアメリカは、日本の軍備を自国に対して60%に抑制するよう強く主張していたから、若槻全権が獲得した対英米7割という数字は健闘といってよかった。軍部は一応の納得を示し、かつ浜口内閣にとっては軍事費を圧縮できるので一石二鳥に思われた。
次に彼は金保有高の確保・維持に手を打った。金融不安が起こるのは兌換性への不信が原因であって、通貨の価値を裏付ける十分な金が確保できれば為替も落ち着くはずだった。そのためには円に対する信用保証を取り付け、金の国外流出に歯止めをかけなければならない。国際経済の安定を図るには日本との共同歩調が必要、と判断したアメリカ合衆国は2500万ドル、イギリスは500万ポンドの信用保証枠を約束した。
第三段階はインフレを抑制することだった。井上は金が経済に果たす「自然の自動調整作用」を信じた。金の保有量に応じて通貨の発行は制限され、おのずからインフレにブレーキがかかる。自然の自動調整作用が充分に働かない時は、日銀が公定歩合でコントロールする。すなわち金本位制の導入である。
政府の動きから内外の投資機関は
「日本の金解禁は間近」
と見て、投資をドルから円に切りかえた。このために為替レートは円高に転じ、百円=43ドル50セントに回復した。これと同期して金の保有量が増加に転じ始めた。緊縮財政で一時的に不況の度は増すかもしれないが、輸出が回復すれば不況から脱することができる。アメリカ合衆国の経済は堅調であるかに見えた。
8月28日、浜口は「全国民に訴う」と題したチラシを作らせ、全国1300戸に配布した。そこには次のようにあった。
今日のままの不景気は底知れない不景気であります。これに反して、緊縮、節約、金解禁によるところの不景気は底のついた不景気であります。前途晧々たる光明を望んでの一時の不景気であります。我々は国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで、後日の大なる発展をとげなければなりません。
経済界はこぞって浜口を歓迎した。
これに対して政友党の水戸忠造は言った。
国民挙って消費を節約すれば、他人の生産したものを買うことが減少すると同時に、自分の生産したものの売れ行きも減少する。言い換えれば経済政策全体の縮小に終わる。浜口首相も井上蔵相も我が国の公債総額が六十億円近くに上ったことを以て、あたかも国家の存亡に関する一大事の如くに宣伝し、現内閣はこれを整理を以て重要使命とするものであると吹聴し、この六十億円を一人当たりに割ってみれば九十円の借金を負っている、誠に大変なことと告げた。
個人レベルの節約は消費を拡大するかもしれない。だが、国をあげて消費を節約すればどうなるのか――この批判は正論であった。
11月21日、政府は
「来年1月11日から金輸出を自由化する」
と発表した。経済の縮小を以て景気の回復をねらうというのである。
この日、株価は跳ね上がった。
金の解禁立て直し
来るか時節が手を取って
という「解禁節」までが流行した。
これを受けて浜口は、自信満々で衆議院を解散した。与党民政党は273議席を獲得した。対して反対を唱えた政友会は174議席にとどまった。
国民は金解禁を支持したのである。
北川宗助が黒澤商店に入る前、まだ暁星中学の制服を着ていたときの話である。
田中内閣は、山東省における邦人の生命・財産の保護を優先することに方針を変更、5月28日に歩兵第三十三旅団、さらに歩兵第八旅団の主力部隊が青島に上陸した。
国民政府軍は1928年4月、三度目の北伐を開始し、山東に再び戦火が及ぶ危険性が高まった。田中内閣は歩兵三個中隊、さらに第六師団を山東に上陸させた。これが第二次山東出兵となる。
日本軍ははじめ、蒋介石軍を刺激することを避けていた。ところが5月3日、たまたま中国兵と日本軍警備兵との間に衝突が起こり、またたくうちに戦闘に拡大した。結果として日本軍は国民政府軍を駆逐し、6月に入って新たに第三師団が上陸した。
他方、田中内閣は張作霖に対して、満州に引き揚げるよう勧告し、張も合意した。ところがこれを由としない日本の関東軍は、張作霖を始末し、一気に国民政府軍をも下して中国を軍の支配下に置こうと企てた。
6月4日、張作霖の乗った列車が奉天に近づいたとき、鉄道に仕掛けられていた爆弾が爆発した。軍が内閣の意向を無視して暴走を始めた第一歩だった。この知らせが内閣総理大臣田中義一のもとにもたらされたのは、同日の深夜だった。
田中は、
「関東軍か……」
と直感し、翌朝、ただちに調査を開始するよう指示を出した。
調査はしばしば陸軍の妨害にあったが、翌1929年7月、調査団は張作霖爆殺事件が関東軍によるものであると断定した。首謀者として河本大作という関東軍高級参謀(大佐)を特定もした。ところが、陸軍は「統帥権」を盾にして抵抗した。
「皇軍にかかわる事項は天皇の大権に属する」
というのである。このためにその処分は「停職」にとどまった。これが田中内閣の命取りとなった。だけでなく、明治以来の近代日本を台なしにするきっかけとなった。
大村益次郎や大山巌が目標としたのは、近代的国家――この場合、「帝国主義的」という形容詞が必要だが――における近代的軍事力の整備だった。彼らは「神兵」を作ろうなどとは考えなかった。
天皇も実は同じように考えていた。田中は宮中に呼び出され、天皇から
「処分が生ぬるいのではないか」
と叱責を受けた。
翌日、田中内閣は総辞職し、代わって組閣したのは民政党の浜口雄幸だった。浜口は第一次加藤高明内閣で蔵相、若槻内閣でも蔵相、のち内相を経験しており、政党政治の刷新、景気の回復に期待が寄せられた。この期待を受けて7月9日に発表されたのが「十大政綱」である。
十大政綱では、対華外交の刷新、軍縮の促進、財政の整理、金本位制への復帰などが掲げられていた。このうち、金本位制への復帰は、第二次世界大戦前の日本政府による経済政策に混乱をもたらした以外、何ら成果をあげることができなかった。
実のところをいうと、19世紀から20世紀初頭まで、国際貿易はすべて金本位で行われていた。つまり、金の輸出入は民間の自由に任されていた。各国の通貨価値を裏付けるのは、各国政府が保有する正貨、すなわち金の保有量だった。日本は国内産業が軌道に乗った1897年に金本位制に移行し、国際社会の一員となった。
ところが第一次世界大戦でヨーロッパ各国が金輸出を禁止し、1917年9月にアメリカも金輸出禁止に踏み切ったため、日本もこれに同調した。1919年末に日本政府が保有していた金は20億円相当であって、金本位制に復帰しても十分に耐えることができる力を保っていた。
関東大震災によって円の対ドル相場が百円=38ドルに急落した。このため、1920年代に入って政府保有の正貨は、日本銀行10億円、在外3億円の計13億円まで減少していた。だが、商社や紡績業は金本位制への復帰を強く要望した。また三井、住友、三菱、安田といった財閥は満州などへの資本輸出を拡大する目的で、1928年10月、金輸出の自由化の即時断行を要求した。
『日本アイ・ビー・エム50年史』がこのあたりの事情をどのように表現しているか。それを見ると、非常に面白い。そこには次のようにある。
初期において容易にカストマーが得られなかった理由は、のちの歴史が証明するところであるが、要するに大正末年の日本の企業にとって、タビュレーティング・マシンを中核としたIBMの高度なメカニズムは、あまりに進みすぎていたといってよく……。
〔のちの歴史が証明するところ〕
というのは、おそらく1960年代以後、特に「IBM1401」、「IBMシステム/360」に始まる”快進撃”を指しているのであろう。だが、これは結果から見た時代分析であって、歴史的考察の方法論から外れている。日本が太平洋戦争に敗北した事実をもって、江戸幕府の成立が間違っていた、と論じるのに近い。
同書に示されている認識では、
――当時の日本の企業は計算機について充分な知識がなく、統計機械による機械化の役割にも理解がなかった。だから当社のPCSは採用されなかった。
というのである。
逆にいえば、十分な知識と認識があれば、IBM社のPCSを採用したはずである、ということになるのだが、さて、これはいかがなものだろう。というのは、パワーズ式統計会計機械装置は、アメリカ合衆国においてもホレリス式の2倍に近いユーザーを獲得していたからである。それはいったい何故であったろうか。
また国内におけるホレリス式のユーザーのうち、三菱造船に関して、『50年史』は
賃金および間接費、そして自家製の材料部品などの工場製品の計算事務の機械化から使用を始めた。そしてこれらに習熟したのち、昭和四年五月から原価のすべてをコード化して原価計算事務全般の機械化をはかり、実用化の目標をいちおう達成した。
昭和初年における三菱造船のIBM機械による原価管理の実施は、日本における事務管理ないし経営管理の近代化、機械化の歴史のなかで先駆的、かつ画期的な事例をなすものであった。
と評している。
レミントンランド社のユーザーが倍近くいたということは、アメリカ合衆国においてさえ、IBM社のメカニズムは”あまりに進みすぎていた”ということになるであろう。そしてそれを使いこなすことができないほどに利用技術が未熟だった日本国内において、ホレリス式統計会計機械装置を”先駆的、かつ画期的”に活用した企業が存在した。
このことは、どのように理解すればいいだろうか。
三菱造船がアメリカの企業以上に先駆的であったことを意味するものではない。利用技術の優劣ではなく、産業界における情報処理要求のレベルがIBM社の機械装置とマッチしていなかった。だけでなく、多くの企業がワイヤリング技術者を確保できなかった。
さらにいえばIBM社の機械装置は使いにくかったのだ。現在でこそIBM社は世界で最もマーケティングに優れた企業の一つだが、1920年代から30年代にかけて、同社はその点でレミントンランド社の後塵を拝していた。IBM社の統計会計機械装置がパワーズ式をキャッチアップするのは、ワトソンが見出した2人の技術者が電動パンチカード装置を開発し、パンチカードを改良して以後のことなのである。
黒澤商店によるホレリス式統計会計機械装置の営業が伸び悩んだ原因は、売り方の違いばかりではなかった。
筆者は
――日本の企業が構造的に持っていた経済基盤に問題があったのかもしれない。
と疑っている。
すなわち、レンタル制のホレリス式を採用することは、固定経費の増大を意味していた。毎月一定の賃借料で機械装置が利用できるのは、業績が右肩上がりのときは有利だが、不況になると大きな負担になる。
当時の日本の企業は経営基盤――さらにいえば民間資本の蓄積――が脆弱だったために、景気変動に大きく左右された。特に、年間4万枚の購入が義務付けられていたパンチカードのランニングコストが、ボディブローとなった。
三菱造船が契約を解除したのも、パンチカードのコストが要因だった。売上げが減り、赤字に陥っても、計算業務の経費を抑制することができないレンタル制の弱点が裏目に出た。企業の経営者は、いっとき無理をしてパワーズ式を購入してしまった方が、長い目で柔軟に対応できると判断したのである。
千代田生命保険相互会社の主計課員・香取繁雄との間で水品浩がやりとりした営業記録が残っている。1929年10月22日に同社の竹内太八郎が黒澤商店を訪問して以後、翌年末まで14か月にわたる記録である。
その中に1930年11月19日付で次のような記録がある。
賃貸借ト売却トヲ如何ニ考ヘラルルヤニ関シ意見ヲ伺フ。
氏ハ勿論売却スルヲ希望スルトノコト。
結局、千代田生命はホレリス式統計会計機械装置を断念し、パワーズ式の導入を決めた。
ホレリス式の契約が伸びなかったのは――別の見方をすると、パワーズ式が売れたのは――機械の性能や操作性にもよっていた。特に操作性と専門家のウエイトであった。
パワーズ式は計算機構の操作を行うリレー配線が固定的であったために、定型的な業務処理に適していた。レミントンランド(1927年1月、パワーズ社を吸収合併)が自社の統計会計機械装置を「タービュレーター(製表機)」と呼んでいたように、どちらかというと、のちのビリングマシンや簿記用の専用機に近い位置づけだった。
これに対してホレリス式は、電動穿孔機で出遅れていた。かつ計算機構の操作はリレーの配線をその都度設定し直さなければならなかった。複数の異なる業務処理を1台の集計装置で行う場合には柔軟性があるが、使いこなすには常時、専門家がいなければならない。
当時は「システム」とか「アプリケーション・プログラム」という概念もなく、必要な人材や資材を外部から調達する、ないし外部に委託するという発想がなかった。ユーザーから見ると、ホレリス式は「操作が面倒な機械」だった。
ホレリス式統計会計機械装置がカスタマーを失ったとき、パワーズ式PCSはどうだったか。
意外なことにパワース式PCS、すなわち三井物産のカスタマーは減らなかった。
当時のパワーズ式PCSの主なユーザーは次のようであった。
〔政府機関〕
鉄道省、逓信省簡易保険局、貯金保険局、内閣統計局、保険院保険局、厚生省労働部。
〔軍事機関〕
第1徴兵、海軍省水路部。
〔公共機関〕
東京都、横浜税関。
〔研究機関〕
厚生科学研究所。
〔生命保険会社〕
第一生命、日本生命、安田生命、千代田生命、明治生命、東邦生命、愛国生命、日葉生命。
〔製造業〕
東京芝浦電気。
〔教育機関〕
神戸商業大学。
〔外地機関〕
朝鮮総督府、台湾総督府、関東州庁、満州国統計処、満鉄、満州国税関。
このうち鉄道省は、自動穿孔機百51台、手動検孔機95台、分類機51台、集計印刷製表装置47台、計344台を保有し、「世界最大規模」と称された。主に貨物の品種別統計に適用し、年間3500万枚のパンチカードを消費したという。
鉄道省は日米開戦とともに男子職員が徴兵されたため、1942年以後、その運用は女子職員によって継続された。だが1945年5月の空襲で機械装置およびパンチカードのほとんどが焼失してしまった。パンチカードとは、プログラムとデータそのものだったわけだから、戦災はすべてを灰にしてしまったことになる。そのうちの自動穿孔機、分類機、集計印刷製表装置が1台ずつ、大阪交通博物館に残っている。
のちの記録だが、1944年5月の時点で国内に設置されていたのは、パワーズ式が1038台、ホレリス式は518台だった。ほぼ2対1の比率となる。
パワーズ式がホレリス式の倍のユーザーを維持できたのは、その販売方式にあったといわれている。
「ホレリス式がレンタル制だったのに対し、パワーズ式は売り切りだった。売り切り方式は、当時の商慣習にフィットしていた」
というのである。
たしかにその通りであろう。
実をいうと1918年、国勢院はパワーズ式統計機械装置を輸入しようと検討した。ところがパワーズ・アカウンティング社もまた、レンタル制を理由に国外での設置を認めなかった。国勢院はいったんあきらめかけたが、三井物産ニューヨーク支店に駐在員として赴任したばかりの吉澤審三郎がパワーズ社を説得した。
「三井物産が機器を購入し、これを利用企業に転売するかたちではどうか」
と打診したところ、パワーズ社からは「可である」という返事があった。レンタルにした場合、月々の入金を管理しなければならない。まして相手は東洋の得体の知れない新興国ではないか。国勢院は会計項目に「賃貸料」がなかった。このために、結局は導入を断念したが、三井物産はそれがきっかけとなって東洋代理店の契約を結んだ。
ちなみに、吉澤審三郎は以後、いいt貫してパワーズ社の計算機とかかわりを持った。パワーズ社はタイプライターと機関銃のレミントンランド社に吸収され、そのレミントンランド社も農機具メーカーのスペリー社に買収されて「スペリーランド」と社名を変えるが、日本での窓口は一貫して吉澤だった。第2次大戦後、独立して「吉澤会計機械」(のち日本ユニバックを経て「吉沢ビジネス・マシーンズ」代表取締役社長)を設立している。
月刊「マネジメント」誌(マネジメント社)の1929年4月号は、「ホレリス式会計機」について次のように記している。
IBMは付属品のキイ・パンチ以外の機械の本体を売らず、機械を貸与して、サービスを売ろうとするものであるが、之は何といっても不便であって、本機が我国で使用せられない原因の一つとなっている。
この論説は、パワーズ式(三井物産)とホレリス式(黒澤商店)のビジネスモデルの違いを正確に指摘したものであった。
1928年(昭和三)の秋、黒澤商店に暁星中学を出た一人の若者が入社してきた。
暁星中学といえば、1888年(明治二十一)8月に麹町区飯田町(現千代田区飯田橋)に開校を許可された私立学校で、その始めは明治初年、五人の宣教師によって築地の外国人居留地に開設された外国人学校にさかのぼる。昭和初期も同校は伝統を受け継ぎ、外国人も通う国際色豊かなハイカラな学校だった。
青年はやや面長で、大人しそうな顔つきや物腰から、育ちのよさが見て取れた。
名は北川宗助といった。
生まれは千葉県佐原だが、早くに縁戚の養子となった。つまり「北川」は養家の姓で、実家は「小森」である。高峰譲吉の仲介で黒澤が懇意となった野田醤油社長である八代目茂木佐平治の縁者ということだったが、実をいうとその娘の子ども、つまり孫に当たった。入社時、20歳である。
小森家の次男として生まれた宗助は5歳のとき、父安蔵の生家である北川家の養子となり、1928年のただいま、黒澤貞次郎商店に入った。母方の祖父・茂木左平治が懇意だったというだけでなく、父方の祖父が黒澤貞次郎に創業資金を提供したという関係があった。
黒澤はこの良家の子息を
「宗ちゃん」
と呼んで、バロース社の会計機やタイマーの保守業務を割り当てた。ところが「宗ちゃん」はことのほか覚えがよく、器械の操作に興味を持っているらしかった。それを見て黒澤は、自社の管理業務をホレリス式統計会計機械装置で処理するよう命じた。
まず給与計算からスタートし、経理全般、販売集計、販売分析といった業務が追加された。この時代、個人商店の給与や売上高の計算は店主が行うのが常識だった。それを北川に任せたのは”身内”の意識があったためであろう。
のちに北川は、自叙伝『情報産業この道六十年』上巻で
「子どものころから機械いじりは好きでした。機械の修理とか管理とかいう仕事に抵抗はありませんでした」
と語っている。
パンチカード型統計会計機械装置は、現在のコンピューターと違ってOSやユーティリティ・プログラムを内蔵していなかった。計算機構の操作や処理データのすべてを、その都度、パンチカードから読み取り、演算回路を専門家が設定しなければならなかった。また1台の装置で複数の処理ができず、分類機や集計機など単機能の機械装置を組み合わせ、計算結果をカードにパンチして印字するというものだった。プログラムというものもなければ、オペレーションの概念もなかった。
ホレリス式統計会計機械装置の操作法やリレーの配線法などを北川に伝授したのは、森村商事から移籍していた水品浩である。黒澤商店の2階で行われていた計算機処理の風景写真を見ると、カードの穿孔を和服姿の女子事務員が行っている。女性が働くということ自体、珍しい時代だった。
北川回顧録から当時の様子を抜粋する。
販売分析、販売統計、経理業務などを機械化するため、帳票の設計やカードのレイアウト、パンチから集計に至るまで、全部私一人でやりました。そのために販売分析・統計、経理に関する資料を買って、ずいぶん勉強したものです。
(中略)
タービュレーターは配線盤が機械に固定されていて、機械の下にもぐって配線しました。昔の電話交換機のプラグと同じようなものです。配線を変えることによって、いろいろと思い通りの帳票がアウトプットできるものだから、それは便利なものでした。外部記憶のプログラムというわけです。
この実演作業は官公庁や軍部、銀行や生損保会社などから注目を集めたらしい。装置の導入を検討する役所や企業の担当者が連日のように訪問し、北川は実演をしながら同時に営業もした。逓信省の簡易保険局は、この実演作業がきっかけでホレリス式の採用を決めた。
それと同時に、機械装置を購入できない企業から事務計算業務を受託し、あるいは導入を検討する企業向けにテストなどを有償で受注した。白木屋百貨店(現東急百貨店)や陸軍省大臣官房、千代田生命保険などが頻繁に黒澤商店の計算機を見学し、また利用した。このときの経験が、のちに北川が共同センター型受託計算サービス業を創業する基礎となった。
ところがこうした彼らの努力もむなしく、いざ正式な発注となると、ユーザーが選択したのはパワーズ式だった。つまり黒澤商店は三井物産のために普及啓蒙活動をしているようなかたちになっていた。1931年(昭和六)のこととして日本IBM社史はこう記している。
昭和六年になると、三菱造船の長崎造船所が3月をもって契約の解除を申し入れ、ついで日本陶器につぐ早い時期からの一貫した利用者であった同社の神戸造船所も翌7年末をもって解約を申し入れてきた。
(中略)
かくて昭和六、七年のいわゆる昭和恐慌といわれた時期には工業会社でIBMの機械を使用しているカストマーはほとんど存在しない状態となったのである。
三菱造船が解約を通告した直接の原因は、ワシントン、ロンドンの二度の軍縮会議による受注の減少だった。事実、1931、32年度の三菱造船の決算は赤字に転落している。しかしこれは三菱造船に限ったことではなかった。IBM社がカスタマーに課した
――パンチカードを必ず年間40万枚を購入すること。
という条項は、カスタマーが増え続けることを前提に設定されていた。黒澤や水品はその落とし穴に気がつかなかった。たしかに契約件数が増え続ければ、国内で独占しているパンチカードだけで相当の利益を確保できる。ところがレンタル制であればこそ、ユーザー企業は契約を打ち切ることができるのである。
黒澤は唸った。
契約が1件取れれば年間数千円の賃貸料が入ってくるうえ、消耗品であるパンチカードが間違いなく売れるのだから、これほど旨味のある商売はなかった。であればこそ黒澤は営業課長に据えた水品に裁量を任せることができた。
黒澤商店(ないし水品浩)は、こんにちのITサービス産業の原点となるいくつかの新しい試みを行っている。一つは見込み企業の業務を分析して機械化を提案するシステム設計サービス、一つはユーザーの日常のシステム運用をサポートするフィールドサービス、一つは受託計算サービスだった。
いずれもレンタル制ゆえの「苦肉の策」のきらいもあるが、機械装置だけ売るのでなく、カスタマーの業務を分析して、必要な機械装置の組み合わせを提案するというのは、斬新な試みだった。結果としてハードウェアからソフト/サービス重視の足がかりとなったことは間違いなかった。
営業を統括していたのは、森村商事からの営業権譲渡と同時に黒澤商店に移籍した水品浩である。水品は見込み企業にレンタル制を理解してもらう努力を続けていたが、そのためには見込み企業に統計会計機械装置のメリットを提案しなければならなかった。
提案書は、最終的に機械装置のレンタル料金の設定に落ち着くが、どのような機械装置が適しているか、穿孔機は何台設置すべきかを見積もらなければならない。この作業は、現在いう「業務分析」であり、システム設計に相当する。その意味で水品は日本人初のコンサルタントであり、プロのシステム・エンジニアだった。
同時に彼は、自らフィールドエンジニアとしてメンテナンスサービスに奔走した。「徹底したサービス」が第一の営業戦略だったといっていい。パンチカード式統計会計機械装置について、その機構まで熟知していたのは水品しかいなかった。
あるとき、三菱造船の長崎造船所から、
「どうもマシンの具合が悪い」
という報せが入った。
水品は必要なパーツを携えて列車に乗った。
新幹線も航空機もなかった時代である。東海道本線で東京から大阪まで13時間を要した。それから山陽本線、鹿児島本線、佐世保線などを乗り継ぎ、丸一日以上かけてようやく長崎造船所に着いて修理を完了した。
ところが、水品が東京に向かう列車に乗っているさなかに、再び長崎から東京の黒澤商店に、
「まだ調子がおかしい」
という電報が届いた。
こうしたことが度々あった。ユーザーから年間保守料を徴収している手前、時間と費用がかかるのを理由に拒否することはできなかった。だが、行ってみて初めて不具合の原因が分かるのでは、部品の手配に過分な時を浪費してしまう。
そこで黒澤商店はIBM社のカスタマーに、日常的なトラブルを自分たちの力で解決できるようにした。いま風にいえば、メンテナンス技術を教え、必要に応じてパーツを預けるようにした。ユーザー教育には水品が当たった。これで黒澤商店の人手不足はかなり緩和されたが、同時にそれは、国内に多くのコンピューターエンジニア、システムエンジニアを育成したことを意味していた。
さらに黒澤貞次郎は、それまでバロース社の計算機で行っていた従業員の給与計算業務を、ホレリス式統計会計機械装置に移行した。森村商事から引き継いだ穿孔機や分類機、集計機などは、東京・銀座の本社ビル2階に展示してあった。
「どうせなら、実際に動かしているところを見てもらった方がいい」
と考えたのだ。
森村商事からホレリス式統計会計機械装置の営業権を継続した黒澤商店は、最初の年、つまり1927年から実績を上げ始めた。まずこの年の9月に海軍の呉造船所総務部、10月に同造船所会計部が相次いで契約を結んだ。次いで翌年1月に商工省、11月に内閣統計局からカードパンチ装置4十7台という大型契約を獲得した。この時期の黒澤商店は震災前の勢いを盛り返し、CTR社の統計会計機械装置にかかわる従業員たちは意気揚々だったに違いない。
ここで筆者は読者に断りを入れなければならない。
これまで「CTR」の略称で呼んできたアメリカの会社を、これ以後、「IBM」と表記する。コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング社は1924年、トーマス・ワトソン社長の決断で社名を「インターナショナル・ビジネス・マシーンズ」(IBM)に変更していたからである。
黒澤商店がIBM社の統計会計機械装置を扱うようになるまでに、国内には先行するユーザーとして、1920年に三井物産を通じてカードパンチ装置を購入した国勢院、森村商事が開拓した日本陶器、三菱造船神戸造船所、同長崎造船所などがあった。さらに森村商事が展示用に取り寄せた最新モデル1式を黒澤商店が引き取っていた。これで日本におけるホレリス式の契約数は9件になった。
森村商会による普及啓蒙活動が、ホレリス式統計会計機械装置の知名度と効用の認識を高めたのはたしかだった。しかし、立て続けに4件の契約を取ることができたのは、黒澤商店の工夫と努力によることも間違いなかった。黒澤商店は同社が一貫して採用してきたカタログ方式を、統計会計機械装置にも適用したのだった。
カタログ方式というのは、黒澤貞次郎がアメリカで仕事をしていたとき「なるほど」と感心した新しい商売のやり方だった。取り扱い製品をジャンル別に分け、商品ごとに説明と価格を記入した印刷物を取引先に配るのである。取引先はそれを見て、他の商品に関心を持つようになる。御用聞きのように営業マンが足を運んで説明する時間とコストを省くことができる。
「モノを売る」という行為が「和歌を詠む」という非生産的行為より価値が低く見られていた当時、印刷物で商売をしようというのは不遜に当たることだった。だが、東京や横浜では新鮮に受け止められた。「タイプライターと関連器具」、「近代事務用機械」、「文書の記録と整理」と題した3種のカタログが作られ、カスタマーに配布された。機器の写真が入った、洒落たツクリである。
「近代事務用機械」のカタログの冒頭には、こう書かれていた。
近代ノ業務ハ、精良ナル器械ヲ要ス。優秀ナル器械ノ使用ハ、執務者ノ労ヲ極度ニ軽減シ、一世紀前ニ於テハ殆ド夢想モ及バザリシ多種多様ノ事務ヲ敏速、正確シカモ経済的ニ処理スルヲ得セシム。
若シ最高度ノ能率性ヲ要スル現代ニ於テ旧来ノ方法ヲ踏襲セバ恰モ鉄ペン、タイプライターノ行ワルル今日、鷲ペンヲ以テ書字スルニ等シト謂フヲ得ベシ。
本カタログニ記載セル業務用器械ハ単ニ意匠ノ新奇ナル外採ル所ナキモノハ一モ含マズ、必ズ実地経験ニ徴シソノ真価ノ確実ナル著名製者ノ製品及弊店ガ特ニ精選セル材料、熟練ナル技術ヲ以テ多年ノ経験ニ鑑ミ現代的業務ニ最モ適応スベク製作セラレタル優良品ナリ。
併せて同社が行った工夫は、「使用料金竝ニ据付費」の一覧を作成したことだった。代理店となった直後に作成したもので、これにより企業は、ホレリス式統計会計機械装置を導入するのにいかほどの投資が必要かを、事前に検討することができた。
それによると、IBM社の統計会計機械装置は次のような価格体系となっていた。
統計機械(印刷機構付)
年間賃借料3750円~5300円/据付費1420円~1750円
統計機(印刷機構なし、オートマチック・コントロール付)
年間賃借料2500円~2750円/据付費830円~920円
標準型統計機械 年間賃借料1750円/据付費650円
水平分類機 年間賃借料875円/据付費470円
電気式複写穿孔機 年間賃借料265円/据付費175円
電気式穿孔機 年間賃借料165円/据付費105円
集団穿孔機 年間賃借料625円/据付費340円
この料金は1ドル=2円8銭33厘で換算したものだが、黒澤は1937年6月に「日本ワットソン統計会計機械」が設立されるまで、料金を変えなかった。機械装置の賃借料は安定収入の源だった。だが黒澤はそれより、パンチカードや保守サービスで入ってくる安定収入に期待していたのである。特にパンチカードはアメリカから輸入に依存せざるを得なかった。ということは、わが黒澤商店の独占ではないか。
中華民国でも世代の交代をきっかけに政局が動いていた。
1925年1月12日、孫文が北京で没した。享年59。
広東省に生まれ、日本に留学して医者となった。ときの清王朝は有名無実に化し、中国は西欧列強はおろか、新興のアメリカや日本にも租借地を与えるありさまだった。これに義憤して「興中会」を組織し、のちに発展して中国革命同盟会が結成されている。
しばしば日本を訪れ、留学時代の旧友と親しく交わるとともに、運動に必要な資金を調達した。鈴木久五郎が10万円という大金を渡して、革命の志を気取ったのはそのときのことである。
1911年(明治四十四)は五行干支でいう「辛亥」に当たっていた。「辛亥」は革命の年である。隋・唐の時代まで、それは「辛酉」であるとされていたが、歴史が重なると必ずしも辛酉の年だけに大きな政変が起こるということがなくなった。このため「甲子」の年には”革令”の役割が与えられ、「辛亥」には”維新”の意味が付与された。つまり暦とはつとめて政治的なものなのである。
孫文はそれを利用した。
「天命が革まるのだ」
と民衆に訴えた。
この訴えは分かりやすかった。これがために皇帝から人心が離れ、清朝が倒れ、満州族は辮髪を翻して東北の故地に帰っていった。その年の12月29日、南京に「中華民国軍政府湖北都督府」が樹立されると、孫文は百万の民が歓喜するなかで臨時大統領に就任した。
1912年3月、「中華民国」の成立をもって孫文は大統領の職を袁世凱に譲り、自らを思想的指導者に位置づけようとした。後世の毛沢東と周恩来の関係に似ている。ところが袁世凱や段祺瑞など軍部との対立が深まり、ついに袁が「皇帝」を称するに及んで広東に下野し、国民党を組織した。中国では「国父」と尊称される。
孫文が世を去った後、中華民国の中枢を握ったのは段祺瑞だった。安徽省出身でドイツに留学して軍事を学び、帰国するや袁世凱の腹心として武威を張った。しかし南京政府は中国全土を掌握できなかった。満州には安国軍総司令張作霖を首領とする軍閥が半独立の情況にあり、かたや広東省には北伐軍総司令蒋介石を代表する国民政府が地方軍閥を傘下におさめて勢力の拡張を図っていた。
1926年、国民政府軍は湖南・江西省に進入し、27年の初めには淅江省の孫傳芳軍を破って上海に迫った。張作霖が孫傳芳を支援するために張宗昌の軍を差し向けたため、満州軍閥と国民政府軍の間に緊張がみなぎった。
――これでは段祺瑞に漁夫の利を与えるのみである。
と判断した国民政府軍がひとまず揚子江南岸に後退し、ことなきを得た。
1927年の1月、国民政府軍は再び北伐を開始し、3月に南京に入城した。その際、1部の部隊が日本領事館を襲撃した。「内政不干渉」を方針とする若槻内閣(第1次)は、この事件に際しても艦隊による領事館員救出にとどめ、騒動はひとまず収まるかに見えた。
この年の3月、衆議院で野党の政友会、実業同志会が震災手形の処理について激しく若槻礼次郎内閣を攻撃した。若槻礼次郎は加藤高明の死没を受けて憲政会総裁に就いていた。
当初、1億円の予定だった震災手形は、産業界の要望を聞き入れているうち、最終的に2億7百万円に膨れ上がっていた。手形の割引について日銀が保証することになっていたので、政府は特別措置法で手形の割引率を引き上げることを計画していた。野党はこの点を攻め立てたのだった。
一方、米騒動で焼打ちにあった神戸の鈴木商店は、長引く不況で債務超過に陥っていた。同商店が抱える債務総額4億五千万円のうち、台湾銀行の債権が3億5000万円を占め、そのうち6500万円が震災手形だった。これを追及しない野党はないであろう。
「この焦げ付きをどうするのか」
と野党は詰め寄った。
蔵相・片岡直温は、やや思慮が足りなかった。3月14日に開かれた衆院予算委員会で彼は、
「台湾銀行は、渡辺銀行と強い連携の関係にある。破綻の心配は全くない」
と、発言した。
渡辺銀行は神戸の鈴木商店のメインバンクであって、片岡とすれば台湾銀行―渡辺銀行―鈴木商店の関係を強調すれば、反対派を説得することができると考えた。ところが現実にはまったくの逆効果だった。
翌日、渡辺銀行に預金者が預金の取り付けに殺到した。
渡辺銀行は要求にこたえるだけの現金を持ち合わせていなかった。このために渡辺銀行は事実上、倒産してしまった。また鈴木商店も破綻し、台湾銀行も休業せざるを得なくなった。
これが引き金となって若槻内閣は総辞職し、政友会の田中義一が組閣した。取り付け騒ぎが起こったのは全国で37行におよび、引き出された預金総額は8億8000万円に達したという。田中内閣の蔵相に就任した高橋是清は4月22日、緊急勅令で金銭債務の支払延期(モラトリアム)を3週間にわたって実施し、ようやく沈静化を見た。
いわゆる「昭和金融恐慌」がこれである。
若槻内閣に代わって政権を担った田中義一内閣は、内憂と外患を一度に背負わされた。清王朝が消滅した後の中国の動乱である。それはまるで、紀元3世紀に曹(魏)、孫(呉)、劉(蜀)の三国が覇権を争った時代を思わせる。歴史活劇を見ているようだったが、それは現実の出来事だった。
計算機から眼を転じて、社会を眺めることにする。
景気は好・不況を繰り返しつつ、下降する傾向を示していた。政治は明治以来の露骨な藩閥偏重が終焉して「民」主体の政党が政権を担ったが、次第に「軍」主導の構図が明らかになった。つまることろ、全体としての見通しはバラ色ではなかった。
日本という国にとってこの時代は、政治・経済のターニング・ポイントというべき時期に当たっていた。世界史の観点でも「近代」を分析する上で重要なウエイトを占めるのだが、同時にいくつかの動きが錯綜し、かつ相互に連携し、姿を変えて現われる。ために史家は、この時機の再現にたいへんな苦労をしている。ときに端折ることがないでもない。
国内におけるいくつかの動きとは、次のようなものであった。
一つは国内における政治情勢の変化である。政党政治が終焉し、軍部が台頭した。1927年4月20日に発足した田中義一内閣から1937年1月23日に総辞職した広田弘毅内閣まで、正味9年9か月の間に成立した内閣は次のようであった。
●田中義一
27年4月20日―29年7月2日(2年2か月)
●浜口雄幸
29年7月2日―31年4月3日(1年9か月)
●若槻礼次郎
31年4月14日―12月11日(7か月28日)
●犬養 毅
31年12月133日―32年5月16日(5か月4日)
●斎藤 実
32年5月26日―34年7月3日(2年1か月)
●岡田啓介
34年7月8日―36年2月29日(1年7か月)
●広田弘毅
36年3月9日―37年1月23日(10か月)
2年以上続いたのは田中義一と斉藤実だけで、両者とも軍人だった。田中は陸軍大将、斉藤は海軍大将。岡田啓介も海軍大将で、このうち岡田は「二.二六事件」に遭遇しなければ、内閣の寿命を2年以上保つことができたかもしれない。浜口、若槻、犬養、広田といった政党を基盤とする文民内閣は、財界だけでなく軍部の支持を必要とした。
大正期までは財界が政策を主導した。殖産興業、富国強兵、資本の蓄積、教育の振興、生活水準の向上など、取り組まなければならない課題がはっきりしていた。ところが第一次大戦がもたらした好況の構図は、
――軍事力=経済力
であった。財界が軍部と手を結ぶようになった。すなわち海外における資産と利権の保全・拡大は、外交でなく軍事力によって実現されることになった。
短命内閣が続いたのは、経済の混乱だった。
不況が深刻化し、労働運動が空前の高まりを見せた。
もう一つは国際情勢の変化だった。
第一次大戦後に築かれたベルサイユ体制が揺らぎつつあった。経済と国際情勢が密接に関連し、その二つは軍事力を裏づけに展開されていた。主な歴史的事件でいえば、「金融恐慌」(1927年)、「山東出兵」(同)、「モラトリアム」(同)、「満州事変」(1931年)、「五・一五事件」(1932年)、「二・二六事件」(1936年)である。大正デモクラシーの時代から日中戦争へ、さらにいえば太平洋戦争への準備が進んだ時期でもあった。時代を色合いで表わすとすれば、この時期は「灰色」が似合っている。
この時期、政財界で鬼籍に入る人が多かった。
1921年(大正十)9月、安田財閥の総帥安田善次郎が神奈川県大磯の別邸で国粋主義者朝日平吾に刺殺された。享年82。
1922年1月、大隈重信没。享年83。
同年2月、山県有朋没。享年83。
1923年9月、加藤友三郎没。享年62。
1924年7月、松方正義没。享年89。
1926年1月、加藤高明没。享年66。
同年12月、大正天皇崩御。享年47。
ただちに摂政・裕仁親王が践祚し、新年号「昭和」が定まった。ために昭和元年は六日間しかない。
こののちややあって、1931年11月11日に渋澤栄一が92歳で没した。
武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)(のち埼玉県大里郡8基村)の豪農に生まれ、徳川三家門の筆頭である一橋家に出仕した。水戸徳川家出身の一橋慶喜が第十六代将軍となるにおよんで幕臣に列し、パリ万国博覧会の日本代表使節(代表徳川武昭)に随行した。その際の見聞をもとに、1868年徳川家が明治政府から借用した五十万両余を元に事業家に転身した。
渋澤は、第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績、東京人造肥料、東京瓦斯、東京貯蓄銀行など五百を超える会社を設立した。明治の殖産興業はこの人物によるところが大きく、またその後の産業の振興にも渋沢家が深く関与した。この人物の死をもって、幕末維新の空気を知る者はほぼ地上から消えたといっていい。
黒澤商店がホレリス式統計会計機械装置を扱った1927年から1937年にかけての世相を概観しておきたい。
計算機の普及や利用技術を主軸にすえる本書からすると、この期間は、
――まことに奇妙な時代。
と言うほかはない。
とにかく景気はよくなかった。にもかかわらず、計算機が売れた。書類用のファイルやバインダー、タイムレコーダーといった事務機器、「TIGER」ブランドの手廻し式計算機なども売れた。計算機や事務機器の世界から見れば、最初の隆盛期だったといっていい。
なぜかというと――。
以下は一般的に指摘されることだが、わずかに関東大震災のあと数年、東京や横浜ではビルや住宅、道路や橋の再建で経済が潤った。地震に強く、火事でも燃えない鉄筋コンクリートの大規模な建築物が相次いで建てられた。複雑で大量の計算業務が発生し、それまでのソロバンを頼りにしていた手計算では間に合わなくなった、という。
なるほど、一理はある。
――第一次大戦の好況で肥大化した企業や商店が、不況に備えるべく事務能率を改善し、人件費の圧縮を追求し始めたのだ。
と言う向きもある。
たしかにそれも一つの要因には違いない。だが、その動きを後押ししたのは普及啓蒙の活動だった。
〔計算機元年〕の項で見たように、大正末期から「執務能率の増進」「能率増進」が盛んに指摘されていたし、日本能率連合会(日本能率協会の前身)から『産業能率』という雑誌が発刊された。坂本重関が『事務能率増進法』を刊行したのは1930年6月、鈴木久蔵が『現業事務能率講話』を著わしたのは同年の12月だった。また1933年になると、第1回統計機械技術研究会が東京東亜会館で開かれた。こうした啓蒙活動が企業経営者に計算事務の機械化の必要性を認識させたことは疑いを得ない。
もう一つ重要なことは、「数字」の問題だった。このことに最初に気がついたのが前島密だったことはすでに書いた。
いうまでもなく、漢数字の「十」「百」「千」「万」と算用数字(アラビア数字)の「10」「100」「1000」は意味が異なる。漢字の「十」「百」「千」はそれぞれの数量に当てられた単独の文字であるのに対し、算用数字は「0」から「9」までの数字の組み合わせに過ぎない。前者は”表現”に類し、後者は”表記”に属する。領収書や寺社への寄付は漢数字で構わないが、これを集計し項目ごとに分類するには、むろん算用数字が適している。
現在のわたしたちからすると、
――えっ?
という感じなのだが、実に昭和初期まで、統計会計機械装置においてさえ、人々はその結果を漢数字で表わしていた。伝票から機械装置にインプットするにも、機械装置がアウトプットした結果を表に写す際にも、人々は漢数字を算用数字に変換する作業をこなしていたのである。
1935年4月、日本能率連合会が
――統計諸表はアラビア数字で表記しようではないか。
と提唱したのは、あたかも裸の王様に子どもが発した
「なぜあなたは裸なの?」
という質問に等しい。この提言がきっかけとなって、まず公共機関が公表する統計が算用数字に変わり、民間企業でも当たり前のことが当たり前に行われるようになっていった。計算機械装置の利用が広がったのには、このような事情もあった。
〈タイプライター〉
タイプライターには余談がある。
東京帝大の田中館愛橘のことである。
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