技術の空白(6)
〈コンパイラ〉
1952年になるとIBM社が二進法・単一アドレス方式で1ワード32ビット固定長、2048ワードを記録できる陰極線管装置を備えた「IBM701」を発表、翌1953年には十進直列処理・二アドレス方式で記憶装置に磁気ドラムを採用した「IBM650」を発表した。
〈コンパイラ〉
1952年になるとIBM社が二進法・単一アドレス方式で1ワード32ビット固定長、2048ワードを記録できる陰極線管装置を備えた「IBM701」を発表、翌1953年には十進直列処理・二アドレス方式で記憶装置に磁気ドラムを採用した「IBM650」を発表した。
〈トランジスター〉
次いでトランジスターが開発された。ゲルマニウムやシリコンなど半導体の結晶に3つ以上の電極を設置し、結晶内部の電子を制御して真空管と同じような動作を実現する。
〈旋風プロジェクト〉
計算機械装置メーカーから相手にされなかったノイマンは、プログラム内蔵型計算機を自力で開発することを思い立ったが、資金と要員が十分でなかった。
〈ENIAC〉
電子工業分野でも、新しい技術が開発されていた。
〈マッハ計がおかしい〉
実験は、B―29の腹部に取り付けたXS―1を高度2万フィート(約6200メートル)で切り離すかたちで行われた。切り離されたあと、ロケットエンジンを噴射して4万フィートまで駆け上り、そこで機種を下げて地上に向かうのである。
〈インスタント・コーヒー〉
日本の産業界がGHQの厳しい統制下で、懸命に戦後の復興に取り組んでいたとき、海外、とくにアメリカでは“次の時代”に結びつく様々な技術が開発され、あるいは実用化されていた。その多くは第二次大戦中の軍事的な要求が生み出したものだった。この間、日本の産業技術は空白の時期にあったといっていい。研究開発より今日の米、明日の糧が優先した。
〈カウンターを拭け〉
奈良に与えられたのは、新製品の英文マニュアルを翻訳することと、セールス・マニュアルの整備だった。需要が沸騰しているから製品が売れる、ということではアメリカ本社は納得しなかった。
〈日本NCR〉
NCR社としての活動が日本で再開されるのは1946年の7月である。「日本ナショナル金銭登録機」が復活し、1951年の1月、社名を「日本NCR」に変更した。
〈間宮堂主人〉
この機械が日本に輸入されたのは1897年(明治三十)、最初に扱ったのは横浜にあった貿易商社の牛島商店だった。きらびやかな装飾を施されたアメリカ製の機械は、発明家にとって興味深いものだった。
〈営業マニュアル〉
ワトソンのように創造力が豊かで、自分でビジネスを組み立てることができるセールスマンは希にしかいない。セールスマンが千人もいれば、成績に明暗がくっきり出る。基本的にはコミッション制だから、成績が悪いセールスマンがいても会社は損害を被らない。しかし全員がうまく売ってくれれば、会社にとってはもっといいではないか。
〈金銭登録機〉
「買ってしまった以上、成功することを考えるしかない」
思考の切り替えが素早いのは、一種の才能であるかもしれない。
〈ヘンリー・パターソン〉
リッティ兄弟はパテントをエッカートという知り合いに売り、エッカートはナショナル・マニュファクチャリング・カンパニー(NMC)という会社にそれを転売した。NMC社はすぐさま製品化したが、思いのほか売れなかった。1883年までに販売されたリッティの鍵盤式計算機は359台だった。
〈BUNCH〉
産業界が動き始め、個人商店にも「近代的・民主的な経営」の認識が浸透していった中で脚光を浴びたのは日本NCRという会社である。
〈日本経営士会〉
7月30日の会議で経済安定本部が、平井がかねて熱心に提唱していた「経営顧問」の育成と制度化に賛意を示したことから、その場で新団体「日本管理技術士会」構想の検討が行われ、具体的な段取りまでが決定した。
〈神戸商業大学〉
神戸商業大学は戦前における国内初、かつ最大の計算機センターとなった。1942年度から「機械会計論」の講座がスタートし、その講座に統計研究所の北川宗助、安藤馨、島村浩の3人が講師として招かれている。
〈平井泰太郎〉
平井泰太郎は東京高等商業高校(のち一橋大学)の商工経営科を卒業し、生まれ育った神戸に戻って神戸商業大学(のち神戸大学商学部)で経営学教授を務めていた。
〈商売に生きる〉
その著書『商売に生きる』で岡田は次のように書いている。
消費者は単にものを求めているのではない。ものと金
との取引をこえて、商人の「人間」を求めている。一人
のお客の喜びのために誠実をつくし、一人のお客の生活
を守るために利害を忘れる。その、人間としての美しさ
をこそ、小売店経営の姿としたい。
〈経営コンサルタント〉
荒木東一郎は1895年(明治二十八)生まれで、1917年に上野陽一とともに米国産業界を視察して、製造業における生産能率向上の手法を学んだ。
〈上野陽一〉
吉田茂が日米単独講和を表明した直後の7月30日、盛大な蝉時雨の中、額や開襟シャツの胸元に汗を光らせながら、その官舎に8人の男が集まった。
通産省の通商企業合理化審議会管理部会が示した第一回答申「企業における内部統制の大綱」に、
――マネージメント・コンサルタント制度の確立を図る必要がある。
と明記されたことに対応した初会合が、この日、開かれた。
〈断腸亭日乗〉
東京・港区の虎ノ門にほど近い路地裏――。〈ジョセフ・ドッジ〉
実をいうと吉田茂がひそかに考えていたのは、商品ごとに異なる為替レートを設定する複数為替制度だった。GHQ占領統治下における円と外国通貨の換算は物資別に設定され、国際レートと国内価値の差を国庫補助で穴埋めしていた。
〈国際通貨構想〉
イギリスが示したケインズ案に対してアメリカ合衆国は1943年4月に「連合国国際安定基金案予備草案」を示し、さらに同年7月にカナダが両者折半の「国際為替同盟」案を提示した。
〈貿易の再開〉1949.4.23
1米ドル=360円の単一為替レートが決定されたのは、1949年の4月23日・土曜日である。この固定レートは24日・日曜日をはさみ、明けた25日の月曜日から実施された。
〈スーサイド・アタック〉
OR手法の適用で調査団が目を丸くして驚いたのは、太平洋戦線における日本軍の「特攻」に関する調査だった。アメリカ軍はいつ、どこから体当たりしてくるか分からない日本軍航空機すら、計数的分析の対象にしていたのである。
〈OR〉
彼らが学んだのは、情報の収集と分析の重要性だった。
例えば第二次大戦のさなか、1944年12月7日の午後1時36分、紀伊半島から名古屋市にかけて、関東大震災並の大地震が発生していた。「東南海地震」と名付けられているものであって、マグニチュードは8.0、1300人以上の死者と約4万戸の家屋が倒壊・損壊した。
〈上限500ドル〉
GHQによる占領政策下で日本人が海外に渡航するのは、困難を極めた。
〈自由主義経済〉
松永翁の話を続ける。
〈三鬼隆〉
三鬼隆。
1892年岩手県に生まれ、1917年東京帝国大学を出て地元の田中鉱山に入った。田中鉱山はのちに釜石鉱山となり、日本製鉄に吸収合併される。1940年日本製鉄の取締役八幡製鉄所次長を経て終戦の翌年、上位の役員が公職追放となったため社長。次いで過度経済力集中排除法により日本製鉄が八幡製鉄と富士製鉄に分割されると八幡製鉄社長となり、日本鉄鋼連盟会長、経団連・日経連理事などを歴任した。1952年経団連第二代会長と目されたが、日航「もく星号」墜落事故で死去。その死去には陰謀説がつきまとった。
〈電気事業再編成審議会〉
「電気事業再編成審議会」は5人の委員で編成されたが、松永は他の産業界を代表する4人の意見をほとんど無視した。松永を除く他の4人とは、慶応大学法学部長・小池隆一、復興金融公庫理事長・工藤昭四郎、日本製鉄社長・三鬼隆、国策パルプ副社長・水野成夫だった。
〈二等車〉
1939年、電力事業の国家統制が実施されたとき、引退を決意した。
〈福松商会〉
500円を元出に松永が福岡に創業した「ゼネラルブローカー福松商会」は、筑豊の石炭で大儲けをした。「松」はもちろん自身の姓から取ったものだが、「福」は福岡でなく、福沢にちなんでいる。
〈電力の鬼〉
証券業に次いで訪米視察団を派遣したのは電力業だった。1950年に羽田を出発した「米国電気事業視察団」である。
〈天皇陛下によろしく〉
証券各社は、一九四七年十一月の「米国証券視察団」を皮切りに、何度となくアメリカの状況を視察した。1952年の第2回証券視察団がレミントンランド社を訪問したときのエピソードがある。
〈遠山元一〉1947.11
産業界でいちはやく視察団を送り込んだのは証券業界である。
まだ1ドル=360円の為替レートが決まっていなかった1947年の11月、日興証券社長の遠山元一を団長とする「米国証券視察団」が羽田空港を飛び立った。目的はアメリカ証券業界における計算事務の機械化の視察だった。
〈3年後〉
こうした流れを全社的な規模で具体化した企業としては、東京出版販売、東京瓦斯、群馬銀行、北海道銀行、八幡製鉄、鐘淵紡績、田辺製薬、中部電力、野村証券、三菱化成、日本電装、安田火災、日本通運などがあった。
〈合理化指導指針〉
「オートメーション」の話に戻る。〈川崎グループ〉
サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の締結で占領に終止符が打たれたとはいえ、アメリカ軍はなお進駐直後と同様、日本人と米兵がトラブルを起こさないよう、細心の注意を払っていた。夜間は事務の仕事が少なかった。
〈稲田博〉
立川グループが狭義の「北川学校」だが、ここにもう一つの流れが存在する。埼玉県の所沢通信隊ないし、神奈川県の川崎補給廠に所属した日本人スタッフたちだ。
〈日本ビジネス〉
1955年の春、アメリカ軍立川基地を辞して独立することを決意した北川は島村を訪ね、
――一緒に会社を興さないか。
と提案した。
〈島村教室〉
ここに島村浩という人物がいる。
日中戦争が始まる前に明治学院大学の英文科を出て、日本ワットソン統計会計機械に営業部員として入社した。この人は水品浩の薫陶を受けたという意味で、北川宗助、安藤馨、今村栄喜などと同列であって、「北川学校」の第一期門下生たちから見ると北川の兄弟筋、つまり“伯父”の位置にある。ただし、やや経歴が異なる。
〈ハンフリー〉
前出の尾﨑眞民は中央大学に在学中、アルバイト募集のチラシを見て立川基地で北川の面接を受けた。パンチカード・システム部隊で情報処理の技術を習得した。
〈多士済々〉
金抜尚信はのちに日本道路公団を経て、「株式会社ハイカ」代表取締役となった。
戸川正夫は「日立ビジネス機器株式会社」に移って常務。
吉野豊は「株式会社エスコム」社長。
志賀英男は「日立情報システムズ株式会社」で中国支店長。
中目(なばため)正男は「資料開発センター」社長。
土岐一貫は東京放送に移り、のちに「東京システム技研」社長。
〈門下生〉
ITサービス産業界で今も語り継がれている「北川学校」という言葉は、GHQやアメリカ軍統治時代にパンチカード・システムの操作をマスターした人々の総称として使われている。
〈MISのはしり〉
山口が言う「夢のような構想を打ち立てて煙に巻く先覚者」とは、アメリカの経営コンサルタントのことを指している。
〈人材〉
朝鮮戦争の勃発と占領軍政治の終焉とほぼ同期して、戦後における計算機の利用は第二期に入ったといっていい。占領軍が植えつけた種が芽を出したのである。パンチカード・システムの全盛期、別の意味では電子計算機の時代の準備期間を迎えるわけだが、そのために人材が高騰した。人材は民間企業にも官公庁にもいなかった。アメリカ軍の基地にいたのである。〈北川見聞録〉
1955年の10月に、アメリカ空軍極東兵站司令部の指令で渡米した北川宗助の「見聞録」(『情報産業・この道六十年』中に収録)は、当時の日本人から見たアメリカ産業界を端的に表わしている。その本文を引用する(原文ママ)。
〈日立・亀有工場〉
小野田セメントや日産自動車、川崎製鉄、日本航空などがパンチカード・システムの活用についてアメリカ軍立川基地の北川宗助のもとを訪れて指導を仰ぐようになった。中には北川の指導を受けながらIBM社のパンチカード・システムを採用しなかった企業もあった。
〈IBM室〉
不況の影響で日産争議など各地に大規模な労働争議が起こっていたが、その一方、将来に向けた投資が活発に行われた。
〈休戦不況〉
当時の労働組合員は、満州からの引揚者や予科練の猛者、特攻崩れの乱暴者が少なくなかった。というより、労働者全員が陸軍や海軍に徴兵され、辛酸をなめた経験を持っていた。国家というものに深い不信感を抱いていたのに加え、傾斜生産政策による好不況の偏りや朝鮮戦争特需の恩恵に浴することなく鬱憤を蓄積させていた。
〈血のメーデー〉
立川基地での仕事はGHQの東京補給本部と大差なかった。
物資の在庫管理と出庫管理を一覧表にした「コンソリデイテッド・アベイラビリティ・レポート」、在庫物資の過不足を管理し近い将来を予測して事前に調達するための「デューイン/デューアウト・ステイタス・レポート」および、基地勤務者の給与計算などが中心だった。
〈いずれ独立〉
次に必要になったのは、信頼するに足りるパンチカード・システムの専門家だった。戦いを有利に展開するには補給を的確に行わなければならなかった。太平洋戦争の成功体験から、補給はアメリカ軍の金科玉条だったとさえいえる。
〈鳥人間コンテスト〉
堀越二郎という人物については柳田邦夫著『零式戦闘機』『零戦燃ゆ』などに詳しい。本庄季郎という人についても様々な記録や文献があるが、本書では初出のため概略を紹介しておく。
〈立川〉
やや時を戻す。〈峠三吉〉
その妻和子の手記。
〈にんげんをかえせ〉
個人的なことでまことに恐縮だが、1951年の9月、筆者は神奈川県の大船という町に生まれている。
〈君の名は〉
小学生や中学生は学校への行き帰りに下を向いて歩いた。道端に落ちている金属を見つけるためだった。鉄、銅、鉛、錫など「カネヘン」が付くものなら何でも売れた。
〈総額24億ドル〉
朝鮮戦争は、日本経済に特需をもたらした。アメリカ軍が日本企業に発注した物資の総額は、24億ドルに達したという記録が残っている。
〈戦死率31.8%〉
4月11日、トルーマンはマッカーサーを解任した。国連軍の総司令官は第八軍司令官のリッジウェイに代わった。板門店で休戦協定が成立したのは開戦から約3年後の1953年7月27日である。
〈抗美援朝〉
勢いを得た韓国軍と国連軍は再び38度線を確保し、さらに平壌に迫った。マッカーサーは
――クリスマスまでに一大攻勢をかけ、新年には戦いに勝利できるだろう。
と楽観的な見方を示していた。
〈ジェット戦闘機〉
朝鮮半島の戦争のことである。
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