研究者たち(6)
〈KT-パイロット〉
萩原の名を知らしめたのは、KDC―1のあとに取り組んだ「KT―パイロット」プロジェクトである。本編の時制からやや下ることになるが、次の巻で語る内容にかかわることなので今のうちに書いておく。
〈KT-パイロット〉
萩原の名を知らしめたのは、KDC―1のあとに取り組んだ「KT―パイロット」プロジェクトである。本編の時制からやや下ることになるが、次の巻で語る内容にかかわることなので今のうちに書いておく。
〈マイクロプログラミング〉
京大の萩原のことを続ける。
情報処理学会の『コンピュータ・パイオニア紹介』を引用する。
〈ちらし寿司〉
当時、京都大学工学部の3年生だった鎌田輝男(福山大学工学部教授)は自身のホームページ「ちらし寿司」(http://www5b.biglobe.ne.jp/~t-kamada/CBuilder/profile.htm)で次のように回想している。
〈萩原宏〉
東大のTAC、電気試験所のETL Mark―Ⅲなど、東京で始まった電子計算機の研究開発のことが続いている。だけでなく、東京タワーの話も書いた。筆者としては東京以外の都市での動きも盛り込みたいのだが、なにせ連合国軍総司令部が設置されて以来、戦後10年というもの、この国は東京を中心に動いていた。
〈西野博二・松崎磯一・相磯秀夫〉
西野博二は1924年広島市に生まれ、1947年9月大阪大学工学部電気工学科を卒業して、商工省電力局に入った。翌1948年電気試験所材料部に移籍し、ここで誘電体の理論と測定法の研究に従事した。
〈後藤以紀・駒宮安男・高橋茂〉
この巻の最後に、1950年代における研究者たちを書き留めておく。
〈電振法〉
電振法は、電子機器・部品・材料について、試験研究、工業生産の開始または増産、生産合理化の促進について、機種や品目ごとに基本計画を策定し、実施計画を示すこととした。計画の策定は電子工業審議会が行うことになっていた。拠って立つ法ができ、予算執行の行政窓口が設置され、産学合同委員会が実施計画を練るという、産業育成の基盤が固まった。
〈政策化〉
1955年の時点で日本国内における計算機の開発状況は、富士通信機製造がリレー式の「FACOM100」を完成させ、富士写真フイルム、日本電気、日立製作所などが大学研究所と共同で悪戦苦闘を重ねている状態だった。
〈情報処理学会〉
1958年10月のことだが、和田の呼びかけで電子計算機の国産化に取り組んでいる主要な研究者が、東京・愛宕山下にあった電子協の会議室に集まった。高橋英俊、森口繁一、元岡達、喜安善市、室賀三郎、高橋茂、清宮清、池田敏雄、池田謹之助などだった。
〈3000万円対324万円〉
開発費はどうだったか。
〈駒宮グループ〉
ライバルは東大のTACではなかった。TAC開発チームの「ノイマンの第二法則」は研究者仲間では有名になっていた。和田と高橋の視野に入っていたのは、つまり東大ではなく同じ試験所の駒宮グループである。
〈和田弘〉
東大工学部と東京芝浦電気がTACの開発で苦戦していたとき、東京・永田町にあった通産省の電気試験所でも、独自の設計による計算機の開発が進められていた。「ETL Mark―Ⅲ」がそれで、同試験所電子部の部長・和田弘が中心的な役割を果たした。
この章では、その和田が話の軸になる。
〈古賀逸策〉
真空管に代わる素子――。
そのことには東大工学部も気がついていた。当時の工学部長で水晶振動子の発明で知られる古賀逸策は、次のように述べた。
〈新井 正〉
プロジェクトの開始から3年目、TACはいよいよ実装段階に入っていた。東京芝浦電気の特器課は課長代理・守田敬太郎をリーダーに、新井正、伊東一郎、堀池三徳、後藤為一の計5人が実装設計に取り組んだ。マツダ研究所に残った松隈と八木は動作確認に余念がなかった。
〈井澤秀雄〉
20世紀初頭に大分出身の矢頭亮一が独創した計算機を「自動算盤」と呼んだのと同じように、ソロバンの代替品という発想だった。
〈雨宮綾夫〉
戦後初の産学協同プロジェクトは、こんにち「TAC」の名で知られている。それを語る前に雨宮綾夫のことに触れておきたい。というのは、この人物こそTACプロジェクトの実質的なリーダーだったからである。
〈山下英男〉
このころ――1940年代の末から1950年代にかけて――、欧米の大学・研究所では計算機を独自に開発することが一種のブームになっていた。
〈ユネスコ〉
山下英男の名を世に高からしめたのは、その年11月にパリで開催されたユネスコの会議であろう。
〈Baby MARK-Ⅰ〉
Baby MARK―Ⅰは暗号解読装置「コロッサス」の技術を継承し、アラン・チューリングやマックス・ニューマンが指揮を取って、EDVACCより1年早い1948年6月に完成した真空管式計算機である。
〈記憶装置〉
トランジスターの勉強会がコンクリートむき出しの防空施設で始まったのと同様、東芝における計算機の研究開発は四畳半の半地下、しかも今は使わなくなっていた旧組合の授乳所だったというのは、いかにも日陰者の扱いだったことを示している。
〈三田 繁〉
日本電気、富士通信機製造にやや遅れて、東京芝浦電気も電子計算機の開発に着手した。現在は「東芝」の名に改まっている。
〈FACOM100秘話〉
FACOM100が出来上がるには、ちょっとした物語がある。
〈トランジスタ勉強会〉
もう一つ、連合国軍総司令部(GHQ)が残したものがあった。
〈生田研究所〉
科学革命の話に戻る。
1945年から1950年にかけて、アメリカ合衆国では次世代の電子技術が相次いで開発されていた。自国内で戦闘が行われなかったことから、欧州諸国に対しても優位な立場にあった。対して日本はそれどころではなかった。
〈日本EDP〉
東京タワーの建設が始まったのは、その年の6月である。設計は「塔博士」の異名を取った早稲田大学教授の内藤多仲、施工監理は日建設計工務、施工は竹中工務店、塔の加工は松尾橋梁と新三菱重工業が担当した。
〈前田久吉〉
テレビの普及を象徴する歴史的建造物は、東京タワーであろう。
東京タワーが日本電波塔株式会社という民間企業によって建設され、現在も運営されていることは意外に知られていない。
〈ミッチー・ブーム〉
1957年の8月28日、東海村の原子炉が臨界点に到達した。これにより原子力の平和利用がスタートした。10月4日には、ソ連が世界で初めて人工衛星「スプートニク1号」の打上げに成功した。それもまた、“戦後”に決別を告げる出来事だった。
〈中野好夫〉
1956年7月17日、経済企画庁は『経済白書~日本経済の成長と近代化~』で、「もはや戦後ではない」と高らかに宣言した。その言葉は同じ年の2月、雑誌「文芸春秋」に中野好夫が書いた論文のタイトルにほかならなかった。
〈トヨペット・クラウン〉
業務用のトラックにも三輪車が使われた。東洋工業、ダイハツと並ぶ発動機メーカーだった日本内燃機製造は、朝鮮戦争後の経済不況の影響で販売不振に陥り、1953年に東急グループに入っていた。
〈ミゼット〉
赤木圭一郎、小林旭、宍戸錠などが常連で出演した一連のアクション映画は、突然のように西部劇まがいのシーンが挿入される独特の色合いをかもし出していた。あるいはキャバレーのシーンや、アル・カポネ風の悪役や早撃ちのガンマンが登場した。
〈ウエスタン・カーニバル〉
1957年の2月8日、東京・有楽町の日劇で初めて開かれた「ウエスタンカーニバル」では、歌謡界における“太陽族”の教祖的存在である平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスが「ロカビリー三人男」、水原弘、井上ひろし、守屋浩が「三人ひろし」ともてはやされた。
〈太陽の季節〉
戦後の風俗に画期をもたらしたものとして、ロカビリーをあげなければならない。そもそも「ロカビリー」という言葉自体、「ロックンロール」と「ヒルビリー」が融合した造語であって、日本にきて独特のイメージが与えられたことを考えると、そこに演歌調の味付けが加わるのは分からないでもない。
〈チャンチキおけさ〉
一方が「美空ひばり」であれば、一方の北詰文司が「三波春夫」であることは容易に想像がつくであろう。
〈ひばり〉
戦後歌謡界の大看板となる2人の歌手がスターダムにのし上がったのは、この時期だった。〈東京だよ、おっ母さん〉
筆者のかすかな記憶では、家の近くの広場にトラックがやってきて、電気洗濯機や電気炊飯器の実演をやっていた。家電メーカーは製品を販売する前に、その効用を啓蒙しなければならなかった。
〈電化製品〉
1955年の出来事を時系列に箇条書きすると次のようになる。
〈阿賀野川〉
新潟県の水銀汚染公害は、阿賀野川上流の鹿瀬という町にあった昭和電工の工場が廃液を垂れ流したのが原因とされた。アセトアルデヒドを生成した際、その排水に含まれていた有機水銀が川底に沈殿し、そこから生えた苔や水草を食べた魚に水銀が蓄積された。自然界の食物連鎖が、動物の体内に蓄積される水銀の濃度を急速に高めていった。
〈石炭から石油へ〉
この当時、全国を走る国鉄の客車や貨車は、山手線など都市部の鉄道を除いてすべてが石炭を燃やしていた。三菱大夕張炭鉱、三井三池鉱、松島炭鉱池島鉱といった鉱山には万を超える工夫が集まり、商店が賑わった。劇場が造られ、病院が建った。小学校や中学校は戦後ベビーブーム世代ではちきれんばかりに膨れ上がり、校舎の増築が間に合わなかった。
〈五五年体制〉
一方、吉田茂を党首として1948年3月に発足した民主自由党は1949年1月の総選挙で264議席を獲得して安定多数を占め、以後1954年12月まで6年2か月に及ぶ吉田政権が誕生した。ここでも派閥闘争が激化していった。
〈バカヤロー解散〉
旧社会民衆党系の右派は保守系に近く、日本無産党系の左派は「暴力主義をとらない共産党」といってよかった。
〈日本社会党〉
まだ「パラダイム」という言葉が存在しなかった1955年。
日本は急速に成長を遂げつつあった。
そのプロセスはまさに「パラダイム・シフト」だった。
〈バターフィールド〉
1949年のこと、イギリスの歴史学者であるバターフィールドが『近代科学の誕生』という論文を発表した。彼はコペルニクスから筆を起こし、ケプラー、ガリレオ、ニュートンといった自然科学の先人たちの仕事が社会、経済、政治、文化、ひいては家庭や個人の生活にどのような変革を与えたかを考察した。
〈科学技術〉
第一分冊の冒頭でも触れたことだが、時代の分析は〔編年〕によって行われる。編年とは、ある一定の地層ないし時間区分に共通して出現する利器をもって、その形状や組成、製作手法、文様などを類型化し、地域特性と時間的・地域的経過を関係付けることからスタートする。
秉炬 『日本書紀』巻第一「神代上」第五段「陰取湯津爪櫛、牽折其雄柱、以為秉炬」(陰に湯津爪櫛を取りて、其の雄柱を牽き折きて秉炬とし)。黄泉の国の伊奘冉尊を訪ねた伊奘諾尊が一目、伊奘冉尊を見ようと暗闇の中でこっそり松明を点けたときの描写に登場する。湯津爪櫛は「ゆつつまぐし」と読み、「聖なる櫛」の意味。「秉炬」の読みは「たひ」、意味は「手に持つ火」のこと。転じて松明を「たいまつ」と呼ぶようになった。
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