15巻之十四葦牙

2009年10月25日 (日)

クロスライセンス(6)

〈IBM1401〉

 IBM社がスペリーランド社をはじめ、海外のコンピュータ・メーカーに特許のクロスライセンス契約を要求したのは、結果から見ると「逆転」に向けた第一歩とも理解できる。しかし、実質的な第一弾は1959年に実施された海外主要国での生産開始だった。

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クロスライセンス(5)

〈最終合意〉1961.8

 1960年1月に来日したWTCのブレント副社長に水品はこの案を了解させ、同月、自身がアメリカに飛んでIBM社と最後の交渉を行った。

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クロスライセンス(4)

〈外資規制〉

 まず、日本IBMの資本の1%を、水品以下、日本人の経営陣が保有することにした。比率はわずかだが、外資100%ではなくなった。

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クロスライセンス(3)

〈実施権契約〉

 1958年(昭和三十三)、電子協の場で国産メーカーは「IBM社の特許を避ける技術を独自に開発することは、経済的にかえって不利である」という結論に達した。

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クロスライセンス(2)

〈1956年〉

 1956年のことだったが、アメリカでちょっとした出来事があった。IBM社がスペリーランド社に、パンチカード・システムと電子計算機に関連する特許とノウハウの使用について、クロスライセンス契約を申し入れたのである。

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クロスライセンス(1)

〈新興メーカー〉

 筆者は行きつ戻りつして、なかなか1950年代から抜けきれずにいる。ようやく三菱商事がフランス・ブル社の計算機を扱い始めたところで1960年代に入ったが、ここで再び1950年代に戻らなければならない。IBM社との基本特許問題である。

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G E(5)

〈TOSBAC〉

  磁気ドラム装置はアメリカ製が手に入らず、北辰電機
 に製造を依頼した。北辰電機は見よう見まねで文字通り
 ドラム缶と同じような大きさの装置を作ってきた。記憶
 容量は三百キロビットほどだった。浮動磁気ヘッドが登
 場する前のことで、構造的にヘッドギャップを確保した。
 そのために毎朝起動するとき熱平衡に達するまで時間が
 かかり、動き出すまでがたいへんだった。


 と『東芝電子計算機事業史』は記す。

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G E(4)

〈菅 要介〉

 ただちに提携交渉準備チームが編成された。先遣隊として電子機器技術部の山中和正(のち第二電算機システム技術部長)、火力技術部の松本吉弘の2名がGE社で研修を受けることになった。2人が羽田を飛び立ったのは9月29日と記録されている。

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G E(3)

〈上原保夫〉

 交渉が難航していた1961年の7月、三井物産の技術室にいた上原保夫という人物が東芝本社を訪問して、
 ――GEという会社のことを研究してみてはどうか。
と言ってきた。

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G E(2)

〈フェニックス〉

 電子計算事業部はアリゾナ州のフェニックスにあった。もともとここにGE社の重電部門の工場があった。そこに電子計算機と生産制御用機器の生産ラインを増設したのである。

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G E(1)

〈MICR〉

 ここで扱うのはゼネラル・エレクトリック(GE)社のことである。なかんずく東京芝浦電気との提携にかかわる話である。

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2009年10月13日 (火)

フランス語との格闘(6)

〈丸紅と東芝〉

 ここで若干の説明が要る。
 情報産業にかかわる年表などによると、GE社は東芝と提携して日本のコンピュータ市場に参入したかのように記述されている。しかし正確にいうとこれは間違いであって、それより以前、総合商社の丸紅が輸入代理店となっていた。

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フランス語との格闘(5)

〈日仏会館〉

 日大の理工学部から三菱商事に入ったのは、一九六二年でした。発電設備の営業に配属され、毎晩のように酒席に誘われて苦労しました。そうこうしているうちに、「計算機をやるらしい」という話が聞こえてきました。何か変わったことをしたいと思っていましたから、すぐに「自分もやりたい」と申し出ましてね。

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フランス語との格闘(4)

〈Gammaシリーズ〉

 まずIBM社とコンパチブルのパンチカード・システム(PCS)があった。カードを毎分150枚読み取る「Gamma150」、当時最高速の毎分300枚を読み取る「同300」の2シリーズである。当時のIBM社の最新鋭大型機「7040」のカード読み取り速度が毎分150枚だから、2倍に相当する。

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フランス語との格闘(3)

〈イーシー・ワン〉

 40年の歳月を経た現在、当時の詳細な事情は知るべくもない――と半ば諦めていたとき、「三菱商事で最初にブルの計算機を扱った人がいる。会ってみないか」という誘いが入った。

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フランス語との格闘(2)

〈三菱商事〉

 日本最大の商社が電子計算機を扱わずにいたというのは、こんにちの情勢からするとまことに不思議な図柄といわなければならない。

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フランス語との格闘(1)

〈マシン・ブル社〉

 1960年代前半の日本の電子計算機市場は「アメリカの縮図」といわれたが、実は「世界の縮図」だったといっていい。フランスの電子機器メーカーを代表するマシン・ブル社が1962年に日本市場に参入したのだ。

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2009年10月 7日 (水)

業務移管(6)

〈沖ユニバック〉

 通産省は国産メーカーによる電子計算機の独自開発を後押ししていたが、一方では池田勇人内閣が強力に推進した貿易の自由化、ひいては国際社会で認知された一定のポジションの獲得という問題を抱えていた。

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業務移管(5)

〈コーディネーター〉

 佐藤雄二朗の歩みは計算機単体の営業だけでなく、大規模なシステムを一括で受注するシステムインテグレーションのビジネスモデルを端的に示している。

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業務移管(4)

〈職業安定所システム〉

 移籍した佐藤に与えられた仕事は防衛庁の総合補給システムという大きなプロジェクトだった。それまでもUNIVAC機は多くの中央官庁に採用されていたが、全国をカバーする大規模なネットワークというのは、さすがに第一物産(のち三井物産)の資本力と政治力に拠っていた。

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業務移管(3)

〈辞表の翌日入社〉

 吉澤会計機入社二年目の営業マンだった前出の佐藤雄二朗は、
 「上司からいきなり、辞表を書け、と言われて驚いた」
 と語っている。

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業務移管(2)

〈4人の大物〉

 初代社長に就任した宮崎清は、太平洋戦争勃発直前まで三井物産のニューヨーク支店長として、非公式ながら日米和平交渉に協力したことがあった。

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業務移管(1)

〈営業方針〉

 「UNIVAC」の章の続き。これからのことがあるので今のうちに断っておくと、しばしば話が前後し、あちこちに飛び地ができる。ジクソーパズルのようなもので、始めは何だか分からないが、出来上がったとき俯瞰すると、飛び地が飛び地でなくなっている。ただし、読み進めるには多少の苦痛が伴うかもしれない。

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2009年10月 4日 (日)

国産メーカー(6)

〈野沢興一〉

 1954年に入社し、池田の新婚家庭に寄宿した経験を持つ石井康雄は「池田の一番弟子」を自認していた。その石井の下でプログラミング技術を習得した岡本は、すなわち「二番弟子」ということになる。1956年に京都大学を卒業して富士通信機製造に入った野沢興一は、差し当たり「三番弟子」に相当するであろう。

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国産メーカー(5)

〈岡本 彬〉

 電子計算機には事務計算用と技術計算用の2種類があって、それぞれに適した設計思想を持つべきであるとする考え方は、実のところでいうと正しくなかった。

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国産メーカー(4)

〈富士通信機工業〉

 技術計算用のリレー式計算機「FACOM100」で一応の成功を収めた富士通信機製造は、東大との関係から、パラメトロン式計算機に力を入れていた。

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国産メーカー(3)

〈NEAC〉

 こうして発足した電子計算機研究グループは、自分たちが作り出す電子計算機を「SENAC」と命名した。「SEN」は仙台の名にちなんでいる。すなわち「Sendai Automatic Computer」。

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国産メーカー(2)

〈SENAC〉

 渡辺はこの研究グループに参加し、1955年末にパラメトロン式計算機の設計に取りかかった。玉川事業所内に「電子計算機係」が置かれたのはこのときだった。

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国産メーカー(1)

〈渡辺 和〉

 国産メーカーに目を転じる。
 1957年の時点で、国産初のリレー式計算機を完成させた富士通信機製造は、「他社より五年は先行している」と豪語していたが、実際にリードしていたのは日本電気ではなかったか。

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UNIVAC(6)

〈佐藤雄二朗〉

 「そりゃ、当時の吉澤会計機には勢いがあった」
 と佐藤は回想する。

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UNIVAC(5)

〈輸入元〉

 先に筆者は吉澤会計機とレミントンランド社の契約が「暫定的なものである」という内容だったことに触れた。それが吉澤会計機の計算機事業の継続を不可ならしめる遠因であった、と書いた。実はもう一つ、同社にとって不利な要因があった。マシンの輸入を自ら行っていなかったのだ。

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UNIVAC(4)

〈ユニバック30年の歩み〉

 日本ユニバックがバロースと合併するに際してまとめた『ユニバック30年の歩み』によると、第二次大戦後の国内におけるレミントンランド社の事業は、1947年に吉澤審三郎が旧三井物産でサービスに当たっていた数人を集め、まず戦災で被災したマシンの保守と修理から事業をスタートした。

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UNIVAC(3)

〈ユーザー〉

 日本IBMと同じように、1951年から1957七年までの国内におけるレミントンランド社、つまりUNIVACブランドの計算機に関連する事項を追ってみる。(「RR」はレミントンランド社の略称)

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UNIVAC(2)

〈吉澤会計機〉

 以上はアメリカの話だが、日本でも事情は変わらなかった。
 日本国内の電子計算機市場で1950年代に快進撃を続けていたのは、したがってUNIVAC機を扱っていた吉澤会計機だった。

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UNIVAC(1)

〈スペリーランド〉

 IBM社に次いで書き留めなければならないのは、レミントンランド社のことである。

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2009年9月11日 (金)

日本IBM(8)

〈労働争議〉

 1959年、工場と保守サポート部門の社員が労働組合を結成した。組合は人事考査と給与体系の見直しを経営者側に要求して、団体交渉を申し入れた。組合の中心的な存在だったのが副委員長・岡崎司、書記長・田部雄三など、直接の交渉窓口となったのが管理課長の小林厚二だった。

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日本IBM(7)

〈中途採用〉

 次々にカスタマーを獲得していくなかで、日本IBMの社員数は急速に増加した。発足時にはわずか66人だったが1955年には485人、1956年は548人、1957年は576人、1958年は688人、1959年は894人、1960年には一気に1387人と、1000人の“大台”に乗った。

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日本IBM(6)

〈IBM650〉

 日本IBMの東京計算センターができた直後、富士通信機製造の電算機開発チームが”最新鋭機”IBM650をつぶさに調査したという逸話がある。

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日本IBM(5)

〈ユーザー教育〉

 社内CEの養成は1950年にスタートし、1951年には大森工場で新規採用者25人を対象に3か月の講習が実施された。これが1953年から「CEスクール」として制度化された。

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日本IBM(4)

〈CE〉

 繰り返しになるが、1950年から1957年までの同社の「快進撃」は、実態でいえば、連合国軍総司令部(GHQ)の撤退や駐留アメリカ軍の縮小に伴って放出されたパンチカード・システムの数量と同期している。

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日本IBM(3)

〈アメリカ軍の“遺産”〉

 1951年から1957年までの7年間について、『情報処理産業年表』から日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズにかかわる出来事を拾うと次のようになる。

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日本IBM(2)

〈桂重俊〉

 その桂が語る。

  帰る間際に一体お宅は何を売っている会社かと聞いた
 ところ、会計機であるということで、加減・分類集計が
 主な目的である会計機の説明を聞いた。なお最後に本社
 では乗除をも行う計算機も作っており、カードに計算手
 順をプログラムして自動計算が行われるという話を聞い
 た。

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日本IBM(1)

〈神田司町〉

 通産省が「電子工業振興臨時措置法」を公布した1957(昭和三十二)の4月、行政管理庁は官公庁や地方公共団体および、大企業を対象にパンチカード・システムの設置状況を調査している。

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2009年9月10日 (木)

電子工業の夢(7)

〈和田昌三〉

 同社の高純度単結晶シリコンの生産量は、翌1960年に2300キロになった。しかし購入したのはソニーだけで、国産電子機器メーカーは振り向きもしなかった。

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電子工業の夢(6)

〈前田一博〉

 ようやく製造法を確立して量産に入ったのは五九年十二月のことだった。生産工場が建てられたのは千葉県の野田市である。

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電子工業の夢(5)

〈新日本窒素肥料〉

 純度九九・九九九九九九九九%、いわゆる「テン・ナイン」というのがどれほどのものかというと、例えば純金は純度が九九・五%である。まず不可能に近い。

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電子工業の夢(4)

〈予算536億円〉

 電子工業振興五か年計画は、政策的課題を洗い出し、新制度の創設や現行法制度の改定に関してマイルストーンを示したものだった。

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電子工業の夢(3)

〈鉄腕アトム〉

 分かりやすく世相的な表現をすると、その背景には手塚治虫の「鉄腕アトム」があった。

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電子工業の夢(2)

〈電子工業振興五か年計画〉

  しかしながら、電子機器の市場は米国をはじめ英、仏、
 西独、オランダなどの諸外国の競争は次第にその激しさ
 を加え、各国とも絶えまない研究による新技術新製品の
 創造と、能率的な生産方式によって互に対抗している現
 状である。

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電子工業の夢(1)

〈科学技術白書〉

 神武景気の真っ只中にあった1956年、国内製品出荷額の産業別構成比は、次のようであった。

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