業務移管(2)
〈4人の大物〉
初代社長に就任した宮崎清は、太平洋戦争勃発直前まで三井物産のニューヨーク支店長として、非公式ながら日米和平交渉に協力したことがあった。
財閥解体指令が出る直前の三井物産で社長を務め、終戦直後は産業の復興や財政再建の”切り札”として入閣が予想された大物中の大物である。三井物産が解体されたのち、リッカーミシン、白洋貿易、日商などの役員を歴任していた。
宮崎の社長就任については、
――第一物産からの強い要請で。
ということになっている。
だがこの説には異論もあって、それは
――このときスペリーランド社の会長だった人物の意向を受けたもの。
というのである。
会長とはダグラス・マッカーサーである。
マッカーサーが「宮崎を社長に」という意向を示したかどうかは定かでないが、少なくとも第一物産はそうするのが得策と考えたのは間違いない。宮崎は以後、1963年5月まで5年間にわたって社長の地位にあり、1970年1月に会長職を退くまで、同社の基礎固めと事業の拡大に貢献した。
また長澤曻三は解体前の三井物産に1924年に入社、一貫して機械部門を歩き、吉澤審三郎とともに戦前におけるスペリーランド社の計算機の輸入販売を担当していた。財閥解体前の三井物産で副社長を務め、解体後の第一物産で常務としてコンピュータ輸入販売事業の再開を推進した。
1963年5月、宮崎のあとを受けて第二代社長、1973年5月から1977年6月まで会長の職にあった。このほか、設立の後ろ盾となったのは、向井忠晴と石田礼助だった。ともに戦前の三井物産を支えた大物である。
宮崎、長澤、向井、石田という政財界に顔が広いこの4人が先頭を切って売り込んだのだから、次々に新規顧客を獲得したのも無理はなかった。新会社として発足したときのユーザー数は53社、設置台数は約3000台だったが、「UNIVAC120」「同60」はたちまちのうちに100台を出荷し、「USSC」は1959年8月からの3年間に60台の受注を獲得している。
宮崎の社長就任については、
――第一物産からの強い要請で。
ということになっている。
だがこの説には異論もあって、それは
――このときスペリーランド社の会長だった人物の意向を受けたもの。
というのである。
会長とはダグラス・マッカーサーである。
マッカーサーが「宮崎を社長に」という意向を示したかどうかは定かでないが、少なくとも第一物産はそうするのが得策と考えたのは間違いない。宮崎は以後、1963年5月まで5年間にわたって社長の地位にあり、1970年1月に会長職を退くまで、同社の基礎固めと事業の拡大に貢献した。
また長澤曻三は解体前の三井物産に1924年に入社、一貫して機械部門を歩き、吉澤審三郎とともに戦前におけるスペリーランド社の計算機の輸入販売を担当していた。財閥解体前の三井物産で副社長を務め、解体後の第一物産で常務としてコンピュータ輸入販売事業の再開を推進した。
1963年5月、宮崎のあとを受けて第二代社長、1973年5月から1977年6月まで会長の職にあった。このほか、設立の後ろ盾となったのは、向井忠晴と石田礼助だった。ともに戦前の三井物産を支えた大物である。
宮崎、長澤、向井、石田という政財界に顔が広いこの4人が先頭を切って売り込んだのだから、次々に新規顧客を獲得したのも無理はなかった。新会社として発足したときのユーザー数は53社、設置台数は約3000台だったが、「UNIVAC120」「同60」はたちまちのうちに100台を出荷し、「USSC」は1959年8月からの3年間に60台の受注を獲得している。
>初代社長に就任した宮崎清は、太平洋戦争勃発直前まで三井物産のニューヨーク支店長として、非公式ながら日米和平交渉に協力したことがあった。
はじめまして。私はアメリカの大学で助教授をしている人間です。今日米交渉を研究していて、宮崎清の名前が出てきたところなのですが、いったいどの本を読めば彼がどのように日米交渉にかかわったのかわかりますか?もし史ってらっしゃったら、お願いします。
投稿: Masako | 2010年1月12日 (火) 12:27