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2009年11月 7日 (土)

ヒューマン・ケミストリー(3)

〈保険業務センター〉

 新庁舎の設計は山田守が担当した。

 山田は1894年(明治二十七)岐阜県に生まれ、1920年東京帝国大学建築科を卒業して逓信省に入った。建築物を単なる建造物としてでなく、表現芸術と位置づける考え方に立って、東京中央電信局や東京逓信病院、日本武道館、京都タワーなどの設計で知られる。
 厚生省保険業務センター高井戸庁舎は中央棟から左右に延びた舎屋が上空から見ると「人」の形をしており、「人が基本」「人を大事にする」というメッセージが込められている。
 このビルの設計で山田は、世界で初めて二重床方式を採用した。今でいう「アクセス・フロア」で、二重床の内部に計算機の複雑な配電線を収納するのである。また建物を梁構造として、地震に強い設計を行っている。インテリジェント・ビルのはしりであった。1966年没。 吉澤のもう一つの業績である受託計算センターの設立というのは、国産パンチカードのテストを縁に知り合った北川宗助が始めた日本ビジネスの「コンピューティングセンター」である。吉澤は東京・京橋の第一生命ビルにあった自社のショウルームを北川に貸し、パンチカード・システムの導入を検討する見込み客への実演を兼ねてその効用をアピールした。
 かつて黒澤商店時代に水品浩が考えたのと同じことだったが、あらかじめ用意されたデモでないだけに効果が大きかった。こののち北川が東京・神田美土代町にあった平山自動車修理工場の2階にセンターを移設した際にも、吉澤はスペリーランド社のパンチカード・システム一セットを貸し出している。
 「吉澤の協力がなければ、受託計算サービスという新しい業務領域の形成は数年遅れた」
 とさえいわれている。
 計算機を販売するために実機を置き、受託計算サービスを行うかたわら、見込み顧客の業務処理のテストやシステム開発に利用する手法は、このときに確立した。また、この手法は1960年代後半に相次いで設立された地域の共同センター設立に生かされた。
 ちなみに日本ビジネスのコンピューティングセンターが計算業務を受託したのは、次のようだった。

1956年
 民間企業 ユニバーサルフィルム、森永製菓、三菱経済研究所、日本航空。
 公共機関 防衛庁航空幕僚監部、同航空自衛隊、同海上幕僚監部。
1957年
 民間企業 十条製紙、伊勢丹、電通、王子製紙、北辰電機、日本特殊金属、東洋レーヨン、        柴田ゴム、昭和電工、石川島重工、白木屋、三菱商事。
 公共機関 日本放送協会、国税庁人事課、同庁統計課、郵政省電波管理局、日本道路公団、日本住宅公団、東京大学工学部、防衛庁海上自衛隊。

 受託計算業務は順調に拡大したが、吉澤と北川の蜜月関係は長く続かなかった。一九五八年、アメリカのスペリーランド社は旧三井物産系の第一物産と日本総代理店契約を結び、共同出資による「日本レミントン・ユニバック」を設立した。これに伴い吉澤会計機の電子計算機事業は事実上、吉澤の手から離れることになった。このあたりの事情は巻之十四で書いた。

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