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2009年11月 7日 (土)

ヒューマン・ケミストリー(5)

〈日本ビジネスコンサルタント〉

 1959年6月14日、日本ビジネスコンサルタントは設立発起人会を開き、翌15日に東京法務局世田谷出張所に設立登記を行った。

 発起人は北川宗助、久山常正(紀州製紙代表)、小森鐘吉(北川宗助の実兄)、堀内元正、今村栄喜、冨永基隆、根元弘、宮崎節哉、小貫正幸の9人、資本金は300万円で、発起人9人のほか松井昭雄、斉藤昭二、千年和夫、尾﨑眞民の4人が出資した。受託計算には、吉澤審三郎から借りたスペリーランド社のパンチカード・システムを使った。またカードパンチにはIBM社の装置も利用した。
 初年度は1959年7月から1960年3月末までの9か月で、北川たちは売上高の目標を2640万円に設定した。
 「これくらいは、何とか行けるだろう」
 と考えたが、それでも一抹の不安は残っていた。
 ところが、IBM社のパンチカード・システムを導入した企業からパンチャーの派遣やパンチ業務が予想以上に発注された。その結果、第一期の決算で、売上高は目標の2倍以上、5570万円を達成したのである。 「北川さんは何かというとパーティが大好きでね。売上高が目標を大幅に超えたというのでドンチャン騒ぎをやりました。とにかく設立間際はファミリアな雰囲気で、全員がお互いにあだ名か“チャン”づけで呼んでいました。わたしは立川基地以来のハンフリー、千年和夫さんは“和夫チャン”、宮崎さんは“宮チャン”。今村さんは別格で“栄喜さん”、北川さんは“オヤジ”」
 そう語るのはインフォメーションディベロップメントの尾﨑眞民である。

 事業が広がると、従業員に支払う給料や経費がかさむ。売上げが入金されるまでに、支出する現金が必要になる。多くの企業が創業後に直面する問題に、北川もまた悩んでいた。
 アメリカ軍立川基地の補給廠に勤務していたときから、北川は日立製作所の機械化を指導したり、実際にシステムを作るなど、深い関係があった。
 北川の回顧録によると、
 「亀有工場の当時の麻生武経理部長のお供をして、当時新大手町ビルにあった日立本社に清成廸常務を訪ね、コンピューターの製造と販売をお勧めしました」
 となっているが、もう一つの目的は日立からの資金援助を要請することだった。これがコンピューター事業で両社が提携するきっかけとなった。
 日立としては、自社製のマシンを売りたかった。そこで資金援助と同時に販売提携が結ばれた。日本ビジネスコンサルタントが日立製の計算機を販売した場合、7%が手数料として入る契約だった。また同社のコンピューター技術者を全国の日立の営業拠点に配置するとともに、全国8か所に受託計算センターを設置することになった。
 このとき、各地で「地域に計算センターを設置したい」という声が上がり始めた。日立の複数の営業所からも、支援の要請が舞い込んでいた。ここに北川は着目した。


【補注】


日本ビジネスコンサルタントの社名 島村浩は日本ビジネスを設立した当初から、長尾と北川がそれぞれ別々の事業を立ち上げていくであろうことを予想していた。そこで、社名の下に別の言葉を付けるだけで新しい意味の社名ができるよう「日本ビジネス」という社名を選んだという。出来すぎの話に聞こえるが、事実であるらしい。

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