« 粘り勝ち(4) | メイン | 粘り勝ち(6) »

2009年11月 7日 (土)

粘り勝ち(5)

〈丸山英人・相沢英之〉

 このとき平松の相手をした大蔵官僚の中に、理財局の資金課長補佐だった丸山英人、主計官だった相沢英之がいる。丸山はのち、総務課長に転じた相沢のあとを受けて主計官となった。一方の相沢英之はのちに大蔵省事務次官に登りつめ、やがて自由民主党所属の衆議院議員となる。
 だが1960年の時点で相沢はそのような将来を見通してはいなかったし、ましてこの話柄から10年後に再び平松と縁を持つとは考えてもいなかった。
 丸山と平松は、その足で富士通研究所の尾見半左右を訪ね、設備投資でなくても資金を借りることができる、という理屈を成立させることに成功した。
 開銀はその理屈――ほとんど屁理屈に近い――に根負けして
 「分かりました」
 と返事をした。
 大蔵省の主計官が了解し、資金課と通産省の電子工業課の二人の課長補佐に熱弁をふるわれては、承知せざるを得なかったというのが、おそらく正しい。

 粘り勝ちだった。

 これが、通産省の政策推進で開銀資金を活用する「特別会計」のウエイトが増加するきっかけとなった。
 国産メーカーとの協議を経て、1か月のレンタル料はメーカーの売価を44で除した金額とし、5.17年の定額償却を行うこと、レンタル・バックがあった場合はメーカーが残存簿価で引き取る――などで合意が成立した。なぜ定額償却期間が5年に設定されたかというと、5年というのが国の長期事業の目安だったためである。国産メーカー6社の共同出資を得て「日本電子計算(JECC)機株式会社」が資本金10億5000万円で発足したのは、前述のように61年8月のことだった。
 同社の取り扱い金額は、61年度が11億円、62年度が32億円、63年度が59億円と急増し、64年度には117億円と100億円の大台を超え、65年度には208億円に達した。これにより、第二次電子工業振興五か年計画の目標数値が達成されたことが裏付けられた。

 これに対応して65年度の開銀融資総額は107億円、資本金は71億円であり、同社は不足分を他の市中銀行の融資でまかなわざるを得なかった。

【補注】

丸山英人 まるやま・ひでと のち大蔵省主計官となった。1965年の秋、富山県砺波商工会議所の会頭・岩川毅が首相・佐藤栄作に提出した「北陸新幹線」構想に着目し、「東海道新幹線に万が一のことが起きた場合の迂回路として、経済上のリスク回避という意味での効果が大きい」と判断し推進しようとした。これに対して地元に利益誘導を図る政治家たちが「東北新幹線」「山陽新幹線」など目論んだために、丸山構想は遂に実現しなかった。
相沢英之 あいざわ・ひでゆき 1919~ 大分県に生まれ1942年東京帝国大学法学部を出て大蔵省に入った。直後に陸軍に応召し主計少尉、1945年8月復職し主計局長、1973年事務次官を経て退官し衆院議員となった。1990年海部内閣で経済企画庁長官、1994年自民党総務局長、二〇2001年党金融問題調査会会長などを歴任し2003年デフレ対策特命委員長。

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。