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2009年11月 7日 (土)

ヒューマン・ケミストリー(7)

〈RCA301〉

 北川はこれにヒントを得た。
 だが難しい問題が山積していた。


 計算センター設立の推進母体となったのは、各地の商工会議所とか、新聞社・放送局などの報道機関か、銀行などの金融機関、県庁・市役所といった自治体でした。
  (中略)
 コンピューターに関して知識のない方が多かったし、それも会社、団体を問わず首脳陣に理解してもらわなければなりません。共同利用方式にしても、委託利用方式にしても、業務上、社内伝票が外部に出されるわけですから、機密保持上だいぶ抵抗がありました。
 計算センター設立を考えている方たちや、企業、自治体側の首脳陣に集まっていただき、コンピューターの使い方、その効果、計算センターの必要性、適用業務の実例、機密保持などについて説明しました。
 すでに設立を準備している方たちには、計算センターの標準的な計画も提示しました。収支計画を作成するに当たっては、需要がどの程度あるのかを調査する必要がありますから、見込み顧客の業務調査や新規開拓を行いました。

 まさに手取り足取りであった。
 一方、日立製作所はHITAC3010を超える新機種の発売を準備していた。1961年5月に、アメリカのRCA社と「エレクトロニクス・データプロセシング・イクイップメント」に関する技術援助契約を結び、IBM社に対抗する事務計算用コンピュータ「RCA301」の輸入販売とノックダウン生産が可能になった。
 北川の努力が実を結んだのは1962年2月だった。仙台市に設立された「東北電子計算センター」がそれである。振興相互銀行現・仙台銀行が地元企業に呼びかけたものであって、その関係から同行頭取の古谷敬二が会長に就任した。また日本ビジネスコンサルタントからは秋谷三郎が出向し、のち同社に籍を移して営業部第一営業課長となった。
 次いで六三年には公認会計士だった新井野竹男が中心となって酒田市に「庄内電子計算センター」が設立され、以後、64年には福岡市に「西日本電子計算センター」が、66年には高知市に「高知電子計算センター」、山形市に「山形電子計算センター」、新潟市に「BSN電子計算センター」、盛岡市に「岩手電子計算センター」、松山市に「愛媛電子計算センター」、松阪市に「松阪電子計算センター」、67年には日本ビジネスコンサルタントの秋田電子計算センターが、相次いで設立されていった。
 このうち岩手電子計算センターは、のちの資本関係から岩手放送の系列となるが、設立当初は地域の官民が参加した第三セクター的性格が強かった。そもそもは岩手県庁の企画部が設立を計画し、盛岡市の賛同を得、ここに岩手放送、岩手銀行が参加したのである。
 また山形電子計算センターは、山形新聞と山形放送が「情報を扱う新しい事業」として意欲的に推進し、日立の「HITAC3010」を設置してサービスを開始している。こうして東北地方は日立の牙城になった。
 設立された地域の計算センターは日本ビジネスコンサルタントの開発部と連携し、営業、技術の両面で日立製作所との関係を強めていった。統括したのは宮崎節哉である。これがやがて「HITAC情報センター・ネットワーク協議会」の母体となっていった。


【補注】

東北電子計算センター 仙台市琵琶首町(現在の青葉区大手町)でスタートし、仙台銀行と日立製作所からの受託業務を中心に仙台国税局や宮城県庁、仙台市役所などに得意先を広げた。
庄内電子計算センター 当初はUSAC3010で地域企業の税務や会計処理業務を受託していた。1964年に日本ビジネスコンサルタントが資本参加し、NBC山形情報システムズを経て山形日情システムズとなった。
高知電子計算センター 設立時から同じ社名で事業を営んでいる数少ない企業のひとつ。ソフト開発やインターネット関連事業は関連会社の高知システムズで行っている。
山形電子計算センター 山形新聞社と山が放送の管理業務を処理するため日立製作所、日本ビジネスコンサルタントと共同で設立されたが、のち富士通製コンピューターに切り替えた。現在の社名は「YCC情報システム」。
BSN電子計算センター 当初は新潟市内の企業の共同出資で設立されたが、新潟放送と新潟日報のウエイトが高まり、現在は新潟放送の関連会社となっている。日立製コンピューターのユーザーだったが、のちに富士通ユーザーとなった。現在の社名は「BSNアイネット」
愛媛電子計算センター 愛媛新聞社を中核に設立され、愛媛銀行、南海放送などが出資している。現在の社名は「愛媛電算」となっている。

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