卷之四曙光 成金(5)
株の売買で大金を手に入れた相場師も登場した。代表格は「鈴久」こと、鈴木久五郎であろう。彼は強気一点張りの仕手戦で、あっという間に1000万円の大金を手に入れた。
〈鈴木商店〉
神戸に本社を構えた鈴木商店は、台湾の砂糖や樟脳を扱っていたが、大戦で物資が値上がりすることを見越して米を買い占めた。これがために米騒動で焼打ちにあった。
〈梅ノ木分限〉
幸運の神は、風に乗って駆け抜けていく。その前髪を捉えることができた成りあがりを、江戸のころは「梅ノ木分限」「にわか分限」と呼んだ。
〈オールド・ノリタケ〉
例えば革命前のロシア政府からは、軍用毛布1760万ヤードの注文があった。このため日本毛織は全工場で24時間の生産を行ったが、それでも受注に追いつかなかった。
〈ベルサイユ体制〉
第一次大戦は、世界史においては、「帝国主義段階における内部矛盾が世界的規模で爆発した最初の世界戦争」と位置づけられている。
〈ソヴィエト〉
ロシア帝国では同年3月に革命が起きていた。ニコライ2世が退位し、さらに10月にはペトログラード武装蜂起の勝利でロシア帝国が斃れ「ソヴィエ ト」が誕生した。革命による政治的、経済的混乱を抱え、誕生したばかりのソヴィエト連邦政府はドイツとの戦争にかまけている余裕がなくなった。
〈大戦景気〉
産業界はこの戦争をどうとらえたか。
ヨーロッパ全土に戦火が広がったというニュースが流れたとき、まず株価が暴落した。次いで紡績業界に不況風が起こった。
〈対華21か条要求〉
そもそも第一次大戦に参戦する正当な理由を日本は持っていなかったし、仮に日英同盟を根拠とする出兵であったにせよ、山東半島からドイツ帝国の勢力を一掃するに当っては、日英中の三国間で
「中国政府に還付する目的で」
という条件が合意されていたのである。
〈袁世凱〉
1914年の8月4日、ドイツ帝国に宣戦を布告したイギリス政府に対して、加藤は駐英日本大使館を通じて、「同盟国として対独宣戦を布告すべきか」と質問した。〈サラエボ事件〉
前節を書いていて筆者は、日中戦争が始まる前の時代を描いているような錯覚にとらわれた。朝鮮、満州、満鉄、フィリピン、ハワイ、仮想敵といった言葉が続くためであろうけれど、だが間違いなく時代は明治なのである。
〈国際ルール〉
このように書くと、大日本帝国は国際ルールを無視した非道外交をやってのけたかに見える。だが実際はそうではなく、大日本帝国政府は国際ルールに則って大韓帝国を支配下に置いたのである。
〈鉄道王ハリマン〉
この暴動には明確な指導者がいなかった。
政府は戦争の詳細な実情を秘匿し、勝利の部分だけを強調する報道しかさせなかった。民衆が「勝った、勝った」と浮かれ騒ぎ、提灯をかざして祝勝会を開いていたとき、実は旅順要塞に取り付いた乃木希典は死屍累々の苦戦を強いられていたのである。
〈大韓帝国〉
日露戦争が勃発した1904年の8月22日こそ、大日本帝国が擬似的西洋に転換したときだった。ロシア軍が要塞を築いていた旅順をめぐる攻防に際して、大日本帝国政府(桂太郎内閣)は大韓帝国政府の局外中立声明を無視して朝鮮半島内に軍を進めた。
〈Z旗〉
バルチック艦隊にとって、旅順艦隊の全滅や遼東半島におけるクロポトキン軍の敗退は、なるほど暗雲に違いなかった。しかし艦隊を率いる中将・ロジェストヴェンスキーは
――艦隊決戦では、勝つ。
と信じて疑わなかった。
〈バルチック艦隊〉
日露戦争(1904年)もまた、海戦が勝敗を決めた。
開戦の前から、こればかりは誰が見ても日本の負けだった。何せ相手は実業団のチームだから、遠征で疲労が癒えていないとはいえ、子どもの草野球では敵うはずがなかった。双方の海戦兵力を見ると、そのことがよく分かる。
〈仁川沖海戦〉
西欧列強の圧力が強まるにつれて、朝鮮半島でも日本の幕末と同じように攘夷論が沸き起こった。当面の攻撃が開港協定と不平等条約を締結した李王朝に向けられたのも、攘夷論が倒幕論と結びついた日本における経過と等しい。ただ日本では幕府対朝廷の構図があって、天皇という超法規的存在がある意味で緩衝役を果たした。李王朝にはそれがなかった。
〈太平天国〉
和洋混淆――幕末以来の景色や文物に「西洋」の文物が混在する状況――から和洋折衷への動きが加速された事情を考えると、やはり日清、日露の二つの戦争を無視するわけにはいかない。例えばそれは、大宅壮一がのちに満州事変を野球に仮託して評論したことに準じれば、たぶんこういうことである。
〈炭化米〉
このようにいうと、読者の中には
「教科書で習った日本史では、水稲耕作をもって弥生の始まりとしているではないか」
と反論する向きもあるに違いない。
〈川口式集計分類機械装置〉
彼は持ち前の器用さを生かし、1904年(明治三十七)、試作機を完成した。外観は「アリスモメートル」に類し、前面に複数の回転式集計器が備えられた。パンチカードを読み取り、それで桁上がりを算出するのである。
〈天馬行空〉
この時点までに、産業界では西洋の計算機が脚光を浴びていた。その8年前に高橋二郎が論文「人口調査電気機械の発明」を発表したのに続いて、1887年(明治二十)には日本生命がイギリスから「テートス計算機」を輸入して保険数理の解明や計算実務に実用化していた。井上馨や渋澤栄一は、計算機の国産化に着目した。森林太郎の説得が効を奏したことは言うを待たない。
〈飛翔原理〉
矢頭亮一は1878年(明治十一)、現在の大分県豊前市岩屋に生まれた。父親は岩屋村の村長だった。
その家系をさかのぼると、
――赤穂四十七士の一人である矢頭右衛門七(教兼)にたどりつく。
という。
〈計算尺〉
計算機はヨーロッパやアメリカが生み出した機械装置には違いないが、蒸気機関や反射炉、自動織機といった近代産業の機器・装置を自力で作り出そうという努力は、江戸幕藩体制の中でもさまざまなかたちで行われていた。
〈西洋〉
岩倉具視を筆頭に、維新政府の首脳約100人が、2年にわたって”西洋”を学んだ。蒸気で動く巨大な鉄の軍艦を見、汽車や汽船に乗り、電気の下で新聞を読んだ。そのことによって、彼らは変節した。
〈鉄道と船〉
輸送では、鉄道の整備が急ピッチで進められた。
●1889年(明治二十二)7月、東海道本線。
●1891年(明治二十四)9月、東北本線。
列島を南北に貫く鉄道の背骨が完成した。
〈政商〉
外国人技師たちは短期間だったが、熱心に日本人の教育に当った。その理由として、日本への往復旅費を日本政府が負担したばかりか、住宅を与え、高額の報酬で遇したことなどがあげられているが、アジア人を蔑視する傾向が強かったヨーロッパ人にあって、いかにも不思議なことといえる。
〈お抱え外国人〉
幕府や諸藩の工場を引き継いだ明治政府は、官営工場の運営と華士族による起業に5000万円を超える助成金を用意して振興を図った。1885年までに投入された国家予算は、官営工場が6000万円以上、華士族による起業が5000万円以上、総額1億5000万円以上だったと推定されている。
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